BAD COMMUNICATION(前篇)
「てめぇ、溺れて意識のない人間には普通、人工呼吸だろうが」
と凄まれた。
そういう問題ではないだろう、と内心ツッコミたい気持ちでいっぱいだったが、多分無駄なのでやめておいた。
そういうわけでとりあえず、そんな状態の高山から目を離すと、本当に大惨事を招きかねないので、仕事に慣れた今も俺は別居を言い出せないでいる。
「さあて、飯でも食いに行くか」
俺は独り言を言って、腕をぐるぐると回しながら、部屋を出た。
「高山くん、ひとり?」
柱の陰からそういって、顔を見せたのは水無瀬先輩だった。
「あっ、はい、あいつ、あっと、社長は今日は重役会議なので、俺一人です」
「そっか、じゃあ、お昼一緒に行かない? 近所にすごく美味しいお店があるんだけど」
そういって水無瀬先輩がにっこりと俺に笑いかけた。
ウッヒャー! 久々にテンション上がるわ。
「あっ、嬉しいです」
そう言って俺は水無瀬先輩について行った。
店は会社を出て、路地を一つ奥にはいったところにあった。町屋というのだろうか、古い民家を改造したひっそりとした佇まいで、ちょっぴり隠れ家的な雰囲気のする創作フランス料理の店だった。
「ここのランチが絶品なのよ」
なにこれ、ひょっとしてデート? デートトいうカテゴリーに分類してもいいスチエー ションだよね。嫌が応でもテンションが上がり、胸が逸る。
涼やかに打水された石畳の玄関に、紺地ののれんが揺れている。奥に進むと、やはり歴史を感じさせる純和風の作りであったが、テーブルや椅子などは、モダンな洋風のものであった。
障子が開け放たれており、小さいながらも手入れのよく行き届いた中庭が見渡せた。
「わあ、素敵な店ですね」
そういって感嘆の声を上げると、
「そうでしょう? 良かった。如月君が気に入ってくれて」
と水無瀬先輩が、微笑んだ。
(あなたは天使ですか、水無瀬先輩。しかもなんだか雰囲気良くね? これ、いけんじゃね?)
そう思った矢先のことだった。
「レアチーズケーキとエスプレッソ」
背後で聞き覚えのある声がした。同時に悪寒が走る。振り返るべきか、それとも振り返らざるべきか、一瞬躊躇ったが、恐る恐る首を後ろに向けてみると、修羅のごとき形相でこちらを睨みつけている高山がいた。
「き~さ~ら~ぎ~」
地獄の地響きのような声だった。
「な……なんなんだよ、お前はっ、つうかお前、俺の作った弁当はどうしたよ?」
そう問うと、
「食ったに決まっているだろう。美味かった。ご馳走様でした。しかも早弁したから小腹が空いて、午後の会議前にケーキセットを食いにきたんだよ! そしたらてめぇ……」
(うん? なんかよくわからんけど、コイツめちゃくちゃ怒ってねぇ?)
「なんだよ?」
「なんだよじゃねえ、最近ここの店が美味いって評判だからだなあ、お前を誘おうと思って時間工面してわざわざ下見に来たつうのによ!」
(どうしよう。なにこれ、この状況……。俺、一体コイツをどうフォローしたらいいんだろ)
俺は高山へのフォローの方法に頭を悩ませた。
気を利かせて、助け舟を出してくれたのは水瀬先輩だった。
「あっ、あの……高山社長のお考えも知らず、私が如月君を誘ってしまって申し訳ありませんでした。大変失礼なことだとは思うのですが、もしよろしければ、高山社長もご一緒にいかがですか?」
さすがは天下の高山商事の敏腕総務課配属なだけはある。俺はこの空気の読める女、水無瀬先輩に、ますます惚れ直してしまった。ナイスフォローである。
「そう、じゃあ遠慮なく」
そういって高山は自分のテーブルに配されたケーキセットを、俺たちが座るテーブルに持ち込み、ずいっと俺の隣に割り込んできた。そして、彼女が化粧室に立った瞬間に、鳥肌が立ちそうな声色で、俺の耳に囁いてよこした。
「地獄の果てまで追いかけてでも、絶対に邪魔してやるからな、慎」
なんでしょう? 性格温厚な高山に、ここまで、ひどいことを言わせているのは……。これはひょっとして、いわゆる恋の三角形といわれている現象なのでは? という思考に行き着いた。
言われるまで気がつかなかった俺も俺だが、高山は水無瀬先輩のことが好きなのだと合点する。
「いっ痛っう」
考え事をしながら、夕飯の支度をしていたら、包丁で指を切ってしまった。人差し指に鮮血が盛り上がる。
「どうした! 慎。見せてみろ」
リビングで資料を繰っていた高山が、血相を変えて飛んできた。
「あっと……別にこのくらい、大したことねえし」
そういって思わず引っ込めた俺の手を掴んで、高山は俺の指を自分の口に含んだ。
「あっ……」
他人に自分の指を舐められたのは、生まれて初めての経験だった。
高山の少し長めの前髪が、俯きざまに、はらりと散った。
心臓が痛い。
なんだ、これ……。
なんか、コイツをこんなに至近距離で見つめることも稀だが、確かに綺麗な顔をしているよな。俺が女だったら、絶対に惚れている。
「何をボケっとしている。消毒して、絆創膏を貼ってやるから、来い」
そういって俺は、高山の寝室に連れて行かれた。
「えっと……あのっ……」
なんだか妙に心拍数が上がって、うまくしゃべれない。
「お前さあ、そういうの、なんつうか……俺のこと、指とかって……汚いとかって思わないわけ?」
そう問うと、高山は一瞬きょとんとした表情をした。
「思うわけないだろ! なんだ? 疲れているのか? 慎」
そういって心配そうに眉根を寄せる高山を見て、俺は溜息をついた。
コイツ、根は悪い奴じゃないんだよな。
なんでもできて、一見完璧人間みてぇに見えるんだけど、対人関係とか、やたらと不器用で。そういうところ全部ひっくるめて、やっぱり俺はコイツのこと、嫌いになれない。
ついてねぇよなあ。よりによって、コイツと同じ人を好きになっちまうなんて。俺、勝ち目ねぇじゃん。
脳裏に一瞬、高山と水瀬先輩が一緒にいる姿が過った。
(あー! バカ切ない)
胸が引きちぎられそうに痛んだ。
夕食の片づけを終えて、リビングからふと窓に視線を移すと、高山がバルコニーで煙草を吹かしていた。息を吸うたびに、その先端が蛍のように、赤く光っていた。
「俺にも一本くれよ」
高山の隣に立ってそういうと、高山はズボンのポケットから飴を取り出した。
「てめぇはそれでも舐めてろ」
チュッパチャプスのコーラ味だった。そういや、学生時代に、やたらとこれにハマっていたっけ。
「懐かしい。お前、覚えてたんだ」
俺は飴の包装を解いて、高山の口に突っ込んだ。
「ん?」
高山が意外そうな顔をする。
俺は高山の指から、火のついた煙草を無理やり奪い取った。そして口に含む。
「もう、ガキじゃねぇよ。俺も」
恰好つけて、煙を吸ってみるが、 煙くて、苦くて……いったい何がよくって、こんなもの吸っているのか、さっぱりわからない。
「間接チューだな」
そういってにやりと笑って高山を見上げると、夜目にも、薄らとその首筋が赤くなっているのがわかった。
「慎、お前なあ……どんだけ無理して吸っているわけ? 顔顰めて吸うんなら、返せ」
(あっ、また眉根を寄せている)
俺を心配しているときのコイツの癖だ。
作品名:BAD COMMUNICATION(前篇) 作家名:抹茶小豆