7月 かけらの国
高校の彼は、私が寝込んでいる間も足繁く通い、そのある意味謙虚さと素直さが私のママに見初められて、学校に復帰する登校日の朝にちゃっかり迎えにきたりして、なんとなく私の彼氏だと勝手に名乗って堂々と一緒にいるようになった。
そして、あーちゃんは、
お母さんのいる神戸に引っ越してしまっていた・・・
私はその後何度も廃墟工場に行った。けれど、いつ行っても工場は終焉を迎えたもの特有の少し不気味な臭いのする空気を纏って、なにも変わらずただぽかんと青空の天井を空けてその下に転がっている無数のかけらの残骸を照らし出しているだけだった。
かけら達はもう輝かなくなってしまった。
ある昼下がり、私は仮病で学校を早退して工場に来ていた。額から流れる汗を拭いながらいつもの部屋に行って、窓枠だけになったひんやりと冷たい剥き出しのコンクリート塀に寄り掛かって転がったコンクリートブロックに座っていた。向かいにも似たようなブロックがあって、そこはずっとあーちゃんが座っていた場所だった。
鬱蒼とした熱気と共に窓枠から差し込む眩しい程の緑を帯びた光の粒子に浮き彫りにされた陰陽のぼやけた境目をじっと眺めていると、あーちゃんの汚れたスニーカーの先っぽが今にも交互に顔を出したり引っ込んだりするんじゃないかという気がして、私は随分長い事それを待つように見つめていた。
窓枠の外には青々と濃く茂った葉が何重にもなって太陽の日差しを柔らかく透けて映し出している。何かを訴えるような油蝉の合唱が聞こえて、それに答えるような木々の微かなざわめく音が判別出来ない程静かに響いてくる。
私はそんな音に耳を澄まして、徐に鞄から手鏡を取り出した。それはパパが私の小学校入学祝いにプレゼントしてくれた大切なもので、いつも肌身離さず持ち歩いていたのだった。鏡の中にはどこか薄淡い色をしたぼんやりした私が映っている。真っ直ぐの黒い髪。色のない顔。汗をかいているのに何故か乾いた唇。黒いばかりの目。まるで実体のない消えかかった影のようだと思った。私はこんな顔をしていたんだなぁ。独り言のように鼻で笑いながら、私はその手鏡を思い切り壁に投げつけた。小さくて華奢な叫びがして、鏡は粉々に砕けて床に落ちた。
かけらは今までで一番キラキラしていて綺麗で、もう私の顔は映っていなかった。一寸、その粉々になった小さな反射面の中であーちゃんが笑ったような気がした。あーちゃん・・・いや、旭は本当はあの綺麗なかけらの中にある国に行ったのかもしれない。私もいつか行けるのかな・・・
でも、何となく自分はもうそこにはいけなくなってしまった事が紙に水が染み込むような感じでわかって、ふと前触れもなく汗だか涙だか判別がつかないものが溢れてきた。私達はいつの間にこんなに離れてしまったのだろう。
いつもの帰り道、彼は狙っていたように私の手を繋いできた。私は一瞬ヒヤリとした。とっさにあーちゃんの時の事を思い出したからだ。けれど、予想に反して別に何も起きなかった。シャープペンシルやコップを持つようにあまりに普通だったのだ。キラキラもなにも見えなかった。あれ、こんなだっけ。拍子抜けしている私とは打って変わって、顔中に甘酸っぱそうな幸せ色を塗りたくった彼はご機嫌で鼻歌を歌っている。繋いだ手は何の感触も実感も伝わってこず、ただ空白のに中に置き去りにされたように宙ぶらりん変な気がした。彼は大きな間延びした欠伸をした。
「今朝、工事の音でうるさくて早くから目が覚めてさ、一体何の工事をしてんのかと思って覗いたら、俺の家の近くにあるデカイ胡桃の木が根元からなくなってたんだ。知ってる? 俺、割とあの胡桃の木好きだったんだけど・・」
唐突に突き上げるような衝動が襲ってきた。私は何だかわからないけれど恐ろしさに怯えるようにして何も言わず、彼の手を振り払って工場へと走った。走らなければいけない大切なものを思い出したのだ。
工場は緑のビニールシートが張られ、取り壊し工事の真っ最中だった。不遠慮なけたたましい大きな音を轟かせて、コンクリートを壊し、次々と原型の判らない瓦礫の山に変えていく。私は圧倒されてしゃがみ込んだ。なくなっていく・・・
あぁ、今やっと理解した。私は本当にバカだったんだ。あーちゃん・・・ ごめんね。
*
いつのまにか、ぼんやりしていたらしい。
隣の先輩が突ついてくれたので、砂漠化が進んでいる頭の部長が長い長い話を垂れ流しながら鋭い視線で私を凝視していた事にようやく気付いたのだ。別に居眠りをしていたわけではないのだから、そんなに目くじら立てなくてもいいじゃないかと思いながらも申し訳なさそうな振りをして、徐に手元の書類をゆっくりと点検し始めた。毎朝恒例の特になにもない儀式的で退屈なミーティング。この会社に入社してから3年目の春。
「最近は弛んでいる方が非常に目立ちます。そして、もうすぐ新入社員が入ってきます。もちろん研修を実地します。それに伴って、是非ともその弛んでいる方達に今一度責任感を担って頂く為に、こちらで研修担当を決めさせてもらいます。本日の昼までには選任決定通知メールを社内に流しますので、選任された方はある意味では我が社の代表と言う事になりますので、くれぐれも宜しくお願いします。これを機械にして気を引き締めていって欲しい」
選任決定通知メールはその2時間後に早速届いていた。やっぱり案の定些か名の知れている何人かの名前に混じって私の名前があった。けれど、私は特に仕事を疎かにしている訳でもないし、むしろ業績を伸ばす方に加担している成績の良い方なのに、ただ単に今朝のミーティング時に丁度部長の目に止まったのがきっかけなんだなと察した。他の女子社員と違って、柔軟な笑顔を振りまいて適当に相手をするのが苦手な愛想のない私は以前から仕事が出来るからと言って横柄な態度が目につくと部長に目を付けられていたのだ。
新入社員研修担当選任決定通知ではなくて、不勤怠者警告通知とでも改題すれば良いじゃないかと1人考えていると、隣の同僚が私の後ろで1つに結わえた髪を引っ張って言ってきた。
「いつも言ってるでしょ。痛い」
「君の髪は長くて艶々してるから引っ張りたくなるんだ。そんな髪してる君が悪い」
その言葉にカチンときたので無視して再び前を向くと、また髪を引っ張る。
「いい加減にして」
「いい加減に引っ張ってる。ねえ、新入社員の子達見た?」
「・・・見てない」
「可愛い子いたよ」
私はその同僚の彼の顔を少し見つめてから、口を開いた。
「へぇ・・・それって、女? 男?」
「どっちも」
「ふーーん・・・なら、お互いに良い出会いがありそうねえーー」