小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

7月 かけらの国

INDEX|7ページ/7ページ|

前のページ
 

 たっぷり皮肉を込めて言ったつもりだったのに、彼は全く動じていなかった。そこがちょっと良いなと思って、何度か寝たのだけど。相変らず同僚としてしか接してこず、かと言って正式に付き合う関係にもならず、中途半端などっち付かずな男だった。けれど、私も彼の事をそこまで好きと言う訳ではなかったので、特に執着もせず仕事の延長の遊びくらいにしか考えていなかったのだ。それでも、思わずそんな皮肉が口から出てしまった所を見ると、然りとて私にも彼に対してのなにかの気持ちが存在していたという事か?
 うきうきと期待に顔を膨らませながらパソコンの液晶画面に目を移した彼の横顔を愛おしいと感じた事はない筈なのにな。生温い感覚のない男。

 数日後、新入社員入社式がやってきた。
 今時わざわざ式なんて行わない所の方が多いのに、うちの会社は時間を裂いてまで行うそんな事が大好きだった。
 社員は朝早くから出勤して準備をさせられた。欠伸を噛み殺し、寝癖のついて少し跳ねた髪に気付いたのは式が始まる間際だった。
「それは、いかにせヤバいでしょ。何につけても第一印象って大事だし」先輩に言われて、私はお手洗いに急いだ。廊下を駆け抜けている途中、腰を曲げて寄り掛かり窓の外を眺めている見慣れない黒っぽい深いグレーのスーツ姿の背格好の男の背中に軽くぶつかってしまった。歳若そうな男は何事かとゆっくりと振り返ったが、男の背中越しから差し込む春めいた光の粒子がやけにきらきらと眩しく私の目を射るので輪郭ぐらいしかよく見えなかった。
「ごめんなさい」
 急いでいた私は乱暴にそれだけ言うと、男の表情も確認せずに走り去った。あんなスペースのない廊下で、邪魔になるような格好をしていた相手も悪いと思ってもいたので、私が先に謝った事に対して仕方ないが癪だったのだ。それに、私は音や感覚で軽くぶつかったと判断したが、実際何故か男の背中とし接触した右腕は一瞬砂を投げつけられたような痛みを感じたのもあって思わず謝ってしまった。けれど、気のせいだったのか痛みはすぐになくなり、私は薄暗いお手洗いの鏡を睨み、髪の毛を撫で付ける事に神経を集中させ始めた。
 式はつつがなく終わり、いよいよ別室に集められた新入社員達に研修担当員として挨拶をする事になった。新入社員達と言っても男と女会わせて10人にも満たない。年々、少なくなってきているのだそうな。私は研修用の分厚い書類を手に取り、ざっと新入社員名簿に目を走らせた。斎藤旭という名前にふと目が止まる。驚いて思い思いに書類を眺める新入社員達の顔を見渡した。それらしき覚えのある顔はいない。まさかね・・・
 並んで立っていた同じ担当員に任命された先輩から静かにメモが回ってきた。説明宜しくと殴り書きがあった。こんな時だけ勤務年数を掲げるらしい。
「では、本日からの研修の流れを簡単に説明致します」仕方なく私はホワイトボードの前に立って、マジックで書き出しながら説明を始めた。俄に扉が開いた音がして振り向くと、さっき廊下で見たスーツを着た男が入ってきていた。若干変化してはいたが、その意思の強そうな目と猫っ毛に端整な顔の面差しには覚えがあった。
「遅れて申し訳ない。ちょっと用を足しに行ってたもんで」
 彼はそう詫びると部屋を見渡し、さっさと空いている席に座って何事もなかったかのように平然と書類を捲り始めた。人違い? 私は少しの間、彼に見入っていた。それを不審に思ったのか先輩のわざとらしい咳払いで再び説明をし出したが、何故か緊張してしまい何度もつっかえて止まったりして、一人で焦っていた。しかし彼はそんな私には一切目もくれず、読書でもしているようにひらすら書類を眺め続けていた。
 丁度昼頃、やっと研修説明会が終わり、新入社員達は気が抜けたようにそれぞれ帰り支度を始めた。
 私はさっきの彼の姿を探したが、何処に消えたのかもういなくなっていた。あーちゃんではないのだろうか? 狐に摘まれたような気分になりながら、春の陽気が華やかに零れ続ける窓辺に近付き、会社の玄関から中庭の通用門までの景色を眺めた。いた。中庭に設置されている会社のセンスのないシンボルを象った噴水の前に立って、最近節水に気遣って勢いがなくなっている吹き上げられると言うか、垂れていると言った方がしっくりくるだろう、しょぼい水を眺めている。私はお昼を買いに行く振りをして急いで外に出た。
 波打つような暖められた緩やかな匂いがする風の中、色素の薄い猫っ毛を眩しくそよがせた彼は煙草を吸いながらじっと何かを見つめていた。漂ってくる透明な煙草の臭いに得体も知れなく取り巻かれながら、声をかけようかどうしようか迷ったが、不意に込み上げてきた痛い程に懐かしい感情から、つい無意識にあーちゃんと口に出してしまった。
 その掠れた声が聞こえたのか聞こえなかったのかはわからないが、彼は特には微動だにせず煙草をのんびり吸い続けた。噴水の石組みの内側に溜っている波紋で揺れる水に反射した光が無数の細かい鏡のかけらのように輝いているのが見える。それはきらきらしながら、微かな水音を振動しながら徐々に空気に溶けていくようだ。間違いないと私は思った。かけらの国から戻ってきたのだ。私がもう一度声をかけようとした時、それを遮るように不意にアコースティックギターのような落ち着いた低めの声が聞こえた。
「あーちゃんじゃねぇ。旭だ」
 唐突に耳の奥で音叉のような音が響き、私の周りの空気の音を広がるように消していった。
 俄に風が吹き始め光のコントラストを強くしていく。彼はそれ以上は何も口に出そうとはせず、隠しから携帯灰皿を取り出すと煙草を擦り付けて消し、背中を向けたままゆっくりと通用門の方に歩いて行った。
 ざわめく木々の影に包まれた私は、その広い濃淡に変色していくグレーの背中に映る光の模様が線のように映っては揺れて次々通り過ぎて夢現つに消えていくのを、目を細めていつまでもいつまでも見つめていた。
作品名:7月 かけらの国 作家名:ぬゑ