7月 かけらの国
私がいくら言ってもあーちゃんは眉間に皺を張り付かせたまんまだった。あーちゃんは小さい頃から感のいい子だった。私とあーちゃんはお互いの母親が職場の同僚だったので、親しくなった。
パパとママはよく私を連れて、あーちゃんの家に遊びに行った。その頃、まだあーちゃんと私は同じ小学生同士だったので自然と打ち解けて一緒に遊ぶようになったのだ。まだなにもなかった頃は私達はお互いの家に泊まりっこしたり、一緒に遊びに行ったりとまるで本当の姉弟みたいに接していた。それがパパが死んでしまってからいつの間にかお互いの親がごちゃごちゃに絡まってしまって変に遠く離れてしまって、まるで違った世界に存在しだしたのかすらわからない。私とあーちゃんは何も変わらないのに・・・ふと、いつかのあーちゃんとの押し入れの出来事が浮かんだが、それはまた強い教室の磁力に負けてすぐに何処かに消えてしまった。
彼はどうして何もしてこないのだろう? これが正式に申し込んだ友達の関わり合い方? 謎は深まるばかりだった。そんな到底答えの出そうにない事を延々考えながら、あーちゃんと別れて家に帰ると、玄関のシミだらけのコンクリートの上に男物の大きな黒い靴が偉そうに並んでいた。嘘。何でよ? 今日は水曜日じゃないじゃないじゃない?!
息苦しくなる程の気持ち悪さが喉元まで込み上げてきた。それと同時に規則正しい息遣いと微かな喘ぎ声が聞こえてきて、私は慌てて外に飛び出した。イヤだぁー・・・! もういやぁーー・・・! こんなのーー!
走って走って、何処をどう走ったのか覚えていないくらいに走って、辿り着いたのは大きな胡桃の木が脇に植わった、もう使われていない通学路の階段だった。その階段を通って、手を繋いだ私とあーちゃんは小学校に通ったのだ。今は住宅開発は進み、反対側に新しい通学路が整備されたのでもうここには人気はなく錆だらけの空き缶が何個か転がり、陰気な曇天の下に横たわった苔むした階段には朽ちた葉が溜っているだけだった。構わずに胡桃の木の真下に位置する階段に腰を下ろした。巨大な胡桃の木は変わらず大きく立派だったが、転がっている空き缶同様の取り残された物特有の物悲しさが所存無げに漂っていた。よく帰りにこの木に登って被れた。
あの頃はパパがいた。いつも優しいパパがいた。私は胡桃の木だけがあの幸せだった頃を覚えていてくれているような気がして、すっかり暗くなってしまってもいつまでも座って、胡桃の木を見つめていた。
パパに会いたい・・・
「一緒に帰ろう」
校舎の昇降口を出ると、夕焼けがかった景色の中、例の彼が待ち伏せをしていた。私はもうすっかり忘れてしまっていて、顔の判別のつかない彼を気付かなかった振りをして横を通り過ぎようとした。
「ちょっと、待ってよ」
「・・・なに?」
「一緒に帰らない?」
「帰らない」
「いいじゃん。友達なんだから」
「そうだっけ?」
「酷いなぁ。もう忘れたのかよー」
「酷いのはあんたでしょ。そうやって気紛れになにかしてくるの迷惑」
「迷惑って事は、少しは俺の事考えたりしてくれたんだ」
嬉しそうだか計画的にだかわからないけれど、爽やかな笑顔を貼付けて彼は足早に歩いて行く私の後を追ってきた。
「付いて来ないでよ」
「一緒に帰ってんだよ」
「そうやってよくわかんない事して私を振り回さないで」
「俺は振り回してないよ。君が勝手に振り回されてるって感じてんだ」
「違う」
「そうだよ。だから君は俺を前より意識し始めてるんだ」
「自惚れ過ぎじゃない?」
そんな事を言い合いながらも気付けば結局、私の家の近くまで来てしまっていた。
「少しでも俺を視界に入れてくれて嬉しいよ」
「入れてない」
「嘘だね」
「どうして私が、好きか嫌いかすらわからないようなあなたを見なきゃいけないの?」
「じゃあ、なんであんな視線を送ってきた?」
気付かれてた。視線が合わないと思って気にしなかったのに。けれど、その自信たっぷりの言葉が気に食わなかったので私は否定し続けた。だってこれじゃあまるで、私が再び誘ったようなものじゃない。
「そう? 気のせいじゃない? 忘れた」
「うん。でも俺は感じたよ。そして嬉しかった」
「知らない」
彼は私の家の前に来ると、ちょっと中を覗くように視線を泳がせてから、じゃあ又明日と言って来た道を戻って行った。彼の家は逆方向らしかった。
何とも言えない気持ちで玄関を開けようとした時、ふと背中に視線を感じて夕闇の濃くなった中、後ろを振り返った。黒々と夜に沈んでいく住宅の並んだ道の少し離れた所に、沈んだ夕日の残光を浴びて影絵のように長く影を引いて立っている小柄なシルエットを認めた。あーちゃんだった。逆光になっているので、その表情まではわからなかったが私が声をかけようとすると、あーちゃんは一目散に走って行ってしまった。追いかけようとも思ったけれど、あーちゃんの足は私より何倍も速いので諦めて家に入った。
それから数週間、あーちゃんは廃墟工場に姿を見せなかった。
朝も見かけない所を見ると、もしかして具合が悪かったのかもしれないけれどわからない。以前、あーちゃんのお母さんに見つかって以来、あまりよく思われていないらしかったので気軽に家を訊ねる事も出来なかった。
とりあえず、私はいくら冷たくしてもめげずに送ってくれる彼を巻いた後、一人で工場に通っていた。
その日は羊毛を無造作に丸めたような雲が多くて、しかもすごい速さで横切って行っていたので薄暗く、吹く風もどこか肌寒かった。だからいつものように工場にあーちゃんがいるのかを見に行ったらすぐに帰るつもりだった。
私は一人では割らない。あーちゃんと一緒の時しか壊さないと、この遊びを思いついた時に2人で約束したのだ。
「絶対に独り占めするなよ! 2人で一緒にするんだからな!」
そう何度もあーちゃんと約束させられた。だから、私はそれを破らない。
工場のいつもの場所に行く途中の吹き抜けの廊下で、私は何気なく上を見上げた。いつもは特に興味もないので見もしないのを、何となくその日は見上げたのだ。そこにはぶち抜かれた陰気な空の天井が広がっていた。不意に胸騒ぎを覚えて、今日はあーちゃんがいますようにと思った。
あーちゃんは来ていなかった。
私は溜息をついて帰ろうとしたが、鼠色の空に何か幾つか光るものを認めた気がして立ち止まった。決して頰に寄り添おうとしないそっけない辺りに漂う空気の色密度が一段と濃くなったような感じがした。帰ろう。そう思って踵を返そうとすると、いつもよりも深く濃い灰褐色を落としている影から不意に現実味を帯びた声がした。
「帰るのか?」
声の主は幾重にも濃淡になった影の中に立ち、軍手をした両手にたくさんの電球や温度計を抱えたあーちゃんだった。
「あーちゃん、いたんだね」
それには何も答えずに、あーちゃんは手に持った物を片っ端から力任せに粉々にし始めた。無言で無表情のあーちゃんは気のせいかいつもよりも苛々となにかの感情を込めて力一杯に叩き付けているようで、破片が勢いよく飛ぶ。