7月 かけらの国
昨日はあれから結局、帰ってきたあーちゃんのママに見つかって帰された。あーちゃんのママは以前のように優しく朗らかな感じではなく、何も言わずに怒ったような複雑そうな表情を浮かべていて何処か悲し気にも見えた。その様子を見たあーちゃんはなんだか申し訳無さそうな微妙な顔をして玄関で送ってくれた。行くべきじゃなかったんだ・・・
「そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃からであります。この頃、ササン朝ペルシアのホスロー1世とビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝がメソポタミアをめぐって激しく争ったために、この地域を通る従来のシルク・ロードは危険となり、商人たちが危険なルートを避けたためシルク・ロードは衰えていきました・・・ ビザンツ帝国の国力低下とともに紅海貿易も衰えたため、アラビア半島の西海岸を経由してシリアに至る中継貿易路が繁栄するようになり、この国際的な中継貿易を独占して莫大な利益を得ていたのがメッカの大商人たちであったのです・・・」
いつのまにか、私のノートにはナメクジがたくさん這った跡が出来上がっていた。眠気覚ましに頬杖をついて窓の外を見る。
春の始まりを告げる風混じりの灰青色をした雨はいつ止むとも知れず、少し寒くて土っぽい湿気った臭いがする。制服のブレザーもスカートも心なしか湿気を含んで重たく感じる。だから余計に動くのが億劫になるのかもしれない。見渡すと、教室中の生徒がまるで紺色の置物みたいにじっとして動かない。その内部には色々なものが動いているのかもしれないけれど、制服が完全に覆い隠しているのだ。毎日がジメジメし過ぎて本当につまらない・・・私は昨日のあーちゃんの事を考え始めた。あーちゃんは昨日、私とセックスしようとしたのだろうか。ママとあいつがやるような汚らしい不埒なセックスを? ・・・まさか!でも、どうしてそれがキラキラと関係あるんだろう? そもそもどうしてあーちゃんはそんな事を知っていたのだろうか? 考えれば考える程、わからなくなっていく。私は無頓着過ぎるのかもしれない。もっと焦ったり、喜んだり、怒ったり、拒否したりしなくちゃいけないのかもしれない。
そういえば、あの時の痛さは一体なんだったんだろう? あれは拒否反応だったとか。まさか。だって私はあーちゃんの事、小ちゃな頃から好きだし、今でも好き。抱っこして寝たり、一緒にお風呂に入ったりだってした事あるんだし、今更拒否反応なんて有り得ない。色々考えているうちに、授業が終わっている事に気付かなかった。
談笑と活気ある空気で満ち始めた教室の、一番廊下側に座っている男の子がふと近付いてきた。と思うと、私の机の前で急カーブを描きそれと同時に小さな紙切れをナメクジが這い回った跡の上に落として、足早に立ち去った。
それを開くと、乱暴な字で、放課後美術室に来いと走り書きがしてあった。私は慌てて教室を見渡したが、もうさっきの後ろ姿をした男の子は見当たらなかった。と言うか誰だけ判別がつかず、全くわからなかった。
普段からクラスメートに対して無頓着な記録力の薄い私は最近ようやく女子の顔を覚えたばかりだったので、まだ男子には到達していなかったのだ。ま、いいや。どうせ、今日は一日雨で放課後は暇だし。晴れている時しか廃墟の工場には行かない事にしているのだ。理由は雨の中の廃墟は普段より幾らか怖いから。私もあーちゃんも怖いのが得意じゃない。それに、今日はあーちゃんも珍しく風邪かなんかで休んでるみたいだし。お気楽な私は特に何も考えずに、放課後になってから美術室に行った。
人気のない美術室の壁に張り付けてあるモナリザもゴッホのヒマワリも、窓際に並ぶガラスの外でいつ果てるともなく降り続く湿っぽい色をした細かい絹糸の風景に圧倒されてしまったのか、何処となく寂しそうに色褪せて見えた。
私は、荒っぽく作られた木の机に彫刻刀で細かに彫りつけられた無数の傷や文字を眺めて時間を潰した。男子はなかなか現れなかった。からかわれたのかもしれないと思い始めた頃、一人の男子がふらっと戸を開けて入ってきた。背の高い、ぼさぼさ頭の少し筋肉質な体系をした二重瞼のくっきりした男子だった。
「来たけど、なに?」私がそう言うと、男子は目の錯覚かと思うくらいの早さで赤くなった顔で、生真面目に言った。
「付き合ってる奴、いんの?」
あまりに聞き慣れない言葉に、私は一瞬考えてしまった。「は?」
「だから、付き合ってる奴とかいるのかって聞いてるんだけど」
「え? 私が?」
「他に誰がいるの?」
男子は増々赤みの濃度を上げていく。あまりの突拍子もない展開に初体験の私は戸惑い、とりあえず誰かと間違えているんじゃないかと考えた。
「意味わかんない。なんか人違いしてんじゃないの?」
「どうしてだよ?」
「本当に私なの? だって、付き合うとかって・・・」
「なら、付き合ってないんだな」
「え? う、うん」
「そっか。だったら、俺と友達から始めて下さい!」
「何それ?」
「嫌?」
「え? わかんない」
「なら、いいんだな」
なんだかあまりの展開の速さに全くついていく事が出来ずに、私はただ狼狽えた。友達って何? こんな風に申し込んで成立するものだっけ?そんな事を考えている間にも、その男子はしつこく言ってくる。私はいい加減に苛々してきたので、思わず大声で怒鳴るように言ってしまった。
「知らない! わかんないよ、そんな事!」
それに驚いたのか少しの沈黙の後、ややあって男子は徐に口を開いた。「じゃ、宜しく」
吐き捨てるように言い残すと、彼は足取りも軽く美術室を出て行ってしまった。残された私はしかし、その男子の名前すら知らない状況だったのだ。
「おい、蛍。どうしたんだよ? ボッーっとして」
ガラスを叩き付けていたあーちゃんが、何も言わない私に気付いてこっちを向いた。
「なにかあったのか?」
「え? ううん。何でもない」
「ふぅーん・・・」あーちゃんは不審な表情を浮かべている。無理もない。私は数日前に起こった美術室事件以来、なんだかボンヤリしていた。当の男子があれ以来ぱったり何も行動を起こしもせず、話しかけてもこない所も不可思議だったのだ。
同じ教室にいても、横を向けば視界に入る位置にいるのにも関わらず、まるで何事もなかったかのようにいつもと変わらず、違う世界を生きている彼。私はおちょくられたのか? そう思って若干腹立たしく思いながらも、何故か授業中でも休み時間でも横が気になってしまうのだ。こうしてあーちゃんと遊んでいる時でも、何となく意識があの教室にあるような錯覚を起こしてしまう。私はどうしたのだろう? 例の如くしゃがみ込んでいると、不意にあーちゃんの小さな手が前髪を分けて私の額に当てられた。
「熱は、なさそうだな」
「ないよ。大丈夫」
「でも、変だぞ。蛍、おかしいぞ。今日はもう帰った方がいい」
「う、うん。そだね」スカートを叩きながら立ち上がる私を微妙な顔をしてじっと見ていたあーちゃんは呟くように言った。
「やっぱ変だ。いつもならもっといたいって言うのに・・・」
「そっ、そんな事ないよ。気のせい気のせい」