7月 かけらの国
防虫剤のキツい臭いのする布団に挟まれるようにして不平を言う私には構わず、あーちゃんはポテチを食べ始めた。押し入れの中に籠った密度の高い空気に半ばぼんやりと投げやりな気持ちになりながら、私は白熱電球に力強く照らし出された彫りの深いあーちゃんを見ていた。
「・・・どうして私のママなんだろう」ふと口をついて洩れてしまった言葉に私は思わずヤバいと思ったが、漫画に目を落としたままではあったがあーちゃんは聞き逃してくれなかった。
「どうしてって、蛍の母ちゃんが魅力的だからだろ」
「だからって、こんなのないよ。なにも考えてないんだよ」
「なにも考えてないこたないだろ。一応大人なんだから。蛍の母ちゃんもそいつも」
「私の気持ちなんてなにも考えてなんかいないよ。すごく無責任だし、虫酸が走る。それにそんな事言ったら、あーちゃんのパパだって大人でしょ?」
ゆっくりと顔を上げたあーちゃんの痛い程真っ直ぐな真剣な瞳は押し入れの薄明かりの中でまるでビー玉のように綺麗だった。
「同じじゃねーよ。俺の親父は大人の中でも結構最低な部類だ」
「だから・・・ 同じなんだよ」
「なにが? 蛍が言ってる事わかんねーよ。なにが言いたい?」
とっさに隠さなきゃと思った。あーちゃんに知られてはいけないのだと思った。知られたらきっと私の事を嫌いになってしまう。「・・・ううん。なんでもない」
「なんだよ。なんか俺に隠してんだろ? 蛍の母ちゃんとこの男と俺の親父が同じ部類って事か?」
「・・・うん そう。そうだよ。 それだけ」
「そんなのわかってるよ。蛍が嫌いな奴は俺も嫌いだ」
「・・・・・・うん ごめん」
「なんで謝んだ? 変な奴だな」そう言うとあーちゃんはまたポテチの袋に手を突っ込んで漫画の続きに戻っていった。その様子を眺めていた私はなんだか心底悲しくて溜らなかった。あーちゃんはなにも知らない。なにも知らされていないのだ。でも、私はうちに通ってくる男が誰かを知っている。知りたくなかった。私もなにも知らなかったら良かったのに。無神経で自分勝手な大人達ばかり。私とあーちゃん以外の面倒事ばかりが好きな人はみんないなくなればいいのにとも思っていた。あーちゃんに気付かれないように無理矢理大きな生あくびの真似をして、押さえきれなかった不条理な思いの雫を幾つか零して目を擦った。その拍子にふらついて後ろに手をつくと何かが指先に触れてぎょっとした。
「ねえ・・・なにか後ろにあるよ」
「お、気をつけろよ。 割れたお袋の手鏡だ」
「うっそ。砕こうよ!」
「今? 止めとけよ。今度にとっとこうぜ」これじゃあどっちが年上だか良識があるんだかわからない。
「やだあー今、すぐ!ここでやろうよっ!私、キラキラするの見たくなった」
変に空元気を発揮しようとした私がそう駄々を捏ねると、何故かあーちゃんは顔を耳まで真っ赤にして口を金魚みたいにぱくぱくさせた。まだ幼さの残るまん丸な目が可愛らしい。
「ばっ! でっ、できるわけねーだろっ!」
「あーちゃん、なんで赤くなってんの? 変なの」
相変らず湯気の出そうなくらいに真っ赤な顔のあーちゃんは、しばらく目をしきりにパチパチさせて漫画を逆さまにして読んでいたが、思い立ったように語尾を強めに言ってきた。
「いいぜ。やろう。でも1つだけ条件がある。電気消して真っ暗にする事!」
「どういう事? 真っ暗にしたら見えないじゃん」
「真っ暗にしなきゃ見えねーんだよ!どうすんだよ。やらない?」
「やる!」私がそう断言すると、あーちゃんの顔は増々真っ赤になった。
「蛍はさ、その・・・俺の事好きか?」
「? うん。大好きだよ」
「そっか。なら大丈夫だな」
「? 何が?」
不意に電気が消されてしっとりとした湿っぽい暗闇が辺りを包んだ。と、同時にあーちゃんの小さな手が何処からともなく伸びてきて私を抱き締めた。途端見えたのだ。キラキラする小さな何かが。
唇に柔らかいポテチ味の何かが押し付けられた。するとまた前より何倍も明るい何かが目の前で炸裂した。これって、キス? だよね。あーちゃんの手はワイシャツの上やスカートの上から不器用に体を這い、ポテチ臭い湿り気で首筋からあちこちを這い回った。私はされるがままで、ただ目の前で正体不明に眩しく光る何かに目が眩んで、布団の間で動けなかった。急に全身の皮膚をチクチク不愉快に突き刺すような痛みを感じた。まるで大小様々な砂利の上に思いっ切り素肌で寝転んだみたいに。
「いっ、いったっ!」
「えっ? まだ痛い事してねーよ」
「痛いよっ!ヤダ! 痛いっ!」私はあーちゃんを振り払った。その拍子に、あーちゃんは呆気に取られた表情のまま押し入れの外に転がり出た。もう部屋の中はシルエットぐらいでしか判別出来ない程に暗くなっていて、窓の外には薄い夜の帳が幾重にも降りてきていた。
「ご、ごめん・・・」
申し訳無さそうな声を出して、あーちゃんは暗い中で床に手をつけて深々と謝った。着ているTシャツがやけに白く浮かび上がって、まるで小さな石膏の塊みたいに見えた。私は籠ったような綿の臭いのする布団に息が出来ないくらいに顔を押し付けて、出来るだけ自分の体を抱え込んでいた。
「あーちゃんが謝る事じゃないよぉ。ごめん。私、もう帰るよっ」
「えっ! だって家に帰りたくないんだろ? さっきの謝るから!もうしないから。俺が悪かったから、いろよ!」
私は何故か半泣きで大声を出して懺悔しているあーちゃんを少しぼんやりと眺めていたが、首を横に振って皺になったスカートを直して立ち上がった。途端に押し入れの上の段を区切る頑丈な板にもろに頭をぶつけて、へなへなと崩れ落ちた。
「だっ、大丈夫かよ! 頭割れなかった?」
慌てて駆けつけてきたあーちゃんの可愛らしく細い腕に頭を乗せながら、私はあまりの唐突な出来事に目を瞬かせた。
「今・・・一瞬見えたよ。目の前が眩しくなって、チカチカした」
「そりゃ、そーだよ。星が飛ぶってやつだろっ」
「頭打っ付けても見えるんだね」
「・・・おい。変な事考えんなよ。見たけりゃ俺が鏡でもガラスでも何でも砕いてやるから、痛くなるような事だけは考えんなよ」
微かな輪郭と声と少し震えている温かい体温だけが、あーちゃんがそこにいるのを教えてくれる。それ以外は漆黒の暗闇。ただ、押し入れの奥であーちゃんのママの割れた手鏡だけが、どこかのなにかの光を反射していた。私はその光を見つめながら、どうしてあーちゃんはあの鏡を廃墟工場に持って来なかったんだろうと不思議に思った。
翌日は雨が降った。
今朝はいつも会う通学路であーちゃんの姿を見かけなかった。私は退屈で、欠伸を噛み殺しながら世界史の授業を受けていた。
「アラビア半島はこれまでの歴史の中では、あまり注目されることはありませんでした。かってのアケメネス朝ペルシアやローマ帝国のような大帝国の領域もこの半島に及ぶことはなく、世界史の主流からはずれていました・・・」