「忘れられない」 第三章 仁美の想い
「早いものでもう二月になりますね。そうそう、あれからちょっと調べたのですが、引越し先は個人情報何とかやらで教えてもらえず、苦労しましたが、近所の人でどうやら岡崎市に居ると言う話を聞き出せました。確実かどうか解りませんが、石原と言う苗字で何軒あるか当ってみます。また報告しますね。寒い日が続きますのでお体大切になさってください」そう書いてあった。
「そうだったの・・・ありがたいわ。電話してみよう・・・」聞いている自宅の番号へ掛けた。
「もしもし・・・森さん?有紀です。ご無沙汰しています。良いお正月でしたか?・・・そうでしたか、良かったですね。メールありがとうございました。その件でお電話させて頂きましたが・・・お時間良かったですか?」
「有紀さんかい?声が聞けて嬉しいよ。いやあ、なかなか知っている人が少なくて苦労しましたよ、ハハハ・・・偶然仲良くしておられたような男性から情報が聞けてやっと掴めたんですよ」
「そうでしたか・・・明雄さんは続けているなら塾をしているはず。そちらの方面から手がかりが見つけられませんでしょうか?」
「なるほど・・・職業からだね。同業者に聞いてみるとしますか・・・また連絡しますよ。待っていて下さい」
「はい、ありがとうございます。手掛かりがあったらそちらへ伺いますのでその折はよろしくお願いします」
「解りました。では、また」
岡崎市か・・・地図を見てみた。家康公の出生地として有名な場所である。この地に彼がいる事を願わずには居られなかった。
暦は2月に変わった。裕美の部屋だった503号室に新しい住人が引越ししてきた。最初の日曜日の午後その男性は有紀の部屋をノックした。
「こんにちわ、ご在宅でしょうか?503号に新しく参りました者です。ご挨拶に伺いました」
「はい、今開けますので・・・」
「恐れ入ります。初めまして・・・安田と言います。あっ!真一です。一人暮らしですが、ご迷惑をおかけするような事は無いと思いますので、よろしくお願いします。これは些少ですがご挨拶代わりです」
タオルを差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。埜畑有紀と言います。私も一人暮らしです。こちらこそよろしくお願いします」
顔は誰かに似ているなあと感じたが、気にせずに過ごした。みんなは50代だと話していたが、もう少し上のように感じた。独身で居るのだろうか、それとも独身になったのだろうか、ちょっと顔を見てそんなふうに想像している自分に気付いた。
「みんなと同じレベルになっているわ・・・フフフ、嫌ね女って」そう笑った。
二軒向こうであっても荷物の出し入れとか結構響くものだと感じた。夕方になって静かになったから終わったのであろう。新しい住人が加わって全室満室の寝屋川パークはそれぞれの部屋にそれぞれの生活を繰り広げながら、ありふれた日常を繰り返すようになって行くのだろう。有紀の住んでいる5階フロアーは子供が居ない。一人暮らしか、夫婦だけか、もしくは成人した子供との同居家族で占められている。オーナーの判断なのか解らないが、偶然にそうなっていた。
自治会もあったが、5階の人たちの参加は少なく、顔見知りは殆ど無かった。専業主婦をしている下の階の奥様達との交流がわずかにあっただけである。
有紀は明雄への想いを便箋に書き認めていた。仁美から遺品で貰ったあのボールペンで書いた。元気を取り戻した頃、裕美はすべてを有紀に話すようになっていた。初恋のこと、初めて好きになったあの人のこと、受け入れられるつもりの恋が苦しくなってきたこと、遊びと本気の両方が入り混じって解らなくなってしまった事、睡眠薬を飲むきっかけになった彼からの言葉など。
有紀は純粋であってもやはり不倫はいけないと強く感じた。必ず男性は妻を取るからだ。そうでない男性ならぐずぐずせずに離婚または家出して身軽になると思うからだ。自分ならそうする。二股はどんなことがあっても許される事ではない。夫に暴力や使い込みがあったとしても、それはまず解決してから自分の想いを貫くべきである・・・そうしないと、本当に好きな相手をある意味裏切ることになるからだ。そのほうがされるより辛いと有紀には感じられる。
裕美が辛かったことは想像がつく。立ち直ってから何かのきっかけで、辛さがリバウンドしてしまったのであろう。傍に居てあげれなかったことが残念だったが、それも彼女の運命だったのかも知れない。安らかな旅立ちの表情を見てそれは強く感じた。自分に何かあった時のために、そして逢えた時、自分の口から上手く言えなかったときのために、想いの言葉を便箋に書き残しておきたいとペンを走らせている。
湯張りが終わったメロディーが聞こえた。
今夜も寒い。冷えた身体を熱い風呂で温めながら、ゆっくりと色んなことを考えることが好きだ。シャワーの壁に鏡が付いている。自分の身体を写して、細かくチェックするのが日課になっていた。
「これなら、明雄さん許してくれるかしら・・・」前、後ろ、横と眺める。好きな入浴剤を入れて、ゆっくりと身体を沈める。鼻にスーッと入ってくるラベンダーの香が気持ちを落ち着かせる。右手で左肩、左腕、そして左手で右肩、右腕と撫でて肌の感触を確かめる。そして、首まで身体を沈め温める。
「仁美さん、元気にしているかな・・・気になるから明日電話を掛けてみよう」そう思いながらそっと目を閉じてバスタブで時間を過ごした。
湯から出て少し火照った身体を冷ます様に冷たいワインを飲んだ。湯冷めしないように部屋の暖房をかけて寛いだ服装でテレビを見ながら時間をつぶす。
「隣に明雄さんが居てくれて、二人で並んで身体を寄せながらワイン飲んで、テレビを観る。コマーシャルになったら、顔を見合わせて・・・好きよ、って言ってキスをする・・・手を強く繋いで・・・明雄さんの手が伸びて来る・・・まだ早いの!イヤ・・・」そんな事を想像した。何がこんな事を思わせるのか不思議だ。今まで明雄の事を忘れる事は無かったが、こんな場面を想像したりはしなかった。
それだけ現実的に明雄との再会を強く感じられるのだろう。この頃少し体調の変化も見られる。綺麗で居られる最後の時を惜しむように感じるのだろうか・・・
翌朝、仁美に電話をした。
「おはようございます。元気にしてますか?」
「おはようございます。ええ、何とかね。あなたの事考えていたの・・・裕美の事思い出す度にあなたの事が重なる。ねえ、会えない?」
「はい、私もそう思って電話したのよ」
「ありがとう。どうする?どこかで待ち合わせしましょうか?」
「そうね、仁美さん森小路でしたよね?じゃあ、守口で会いましょうか?」
「そうね、そうしましょう。じゃあ12時に・・・はい、解りました」
二人とも偶然だが京阪電車の沿線に住んでいた。京都市内から大阪淀屋橋まで走っている私鉄だ。有紀の住んでいる寝屋川市は大阪東部のベッドタウンだ。学園都市枚方市に隣接する丘陵地にある。
有紀は待ち合わせ場所の守口市駅に急行に乗って向かった。
「仁美さん、お待たせ・・・」有紀は改札を出たところで待っていた仁美に声をかけた。
「有紀さん、会いたかったわ。元気でした?変わった事無かった?」
作品名:「忘れられない」 第三章 仁美の想い 作家名:てっしゅう