無題(仮)
なにかの儀式のようなその所作は少し前までの闘気に満ちた躍動が嘘のような静謐さで、何か神々しい気配が辺りに満ちていく感じさえした。自然と息を潜めてその様子を見守っていたソラは、そのまますたすたと歩き出した男の姿にはっと我に返った。
「ちょ、ちょっと待って!」
悲鳴のような声に、男の足がぴたりと止まる。振り向いた男は大岩の上にへたり込んだままのソラに目を向け、ああ、という顔になってきびすを返した。
「悪い、忘れてた」
「わ……って! ちょっ、信じられない! 普通忘れる!?」
真下から手を差し伸べつつの一言に、感情にかかっていた麻痺の箍がかちりと音を立てる。一気にこみ上げてきた衝撃と恐怖の感情に、ソラはとっさにその手を払いのけていた。
「いきなり怒鳴られるし! あんなのに襲われるし! すごい怖かったし! 貴方はさっさと行こうとするし……!」
ぶわっと溢れ出した涙が視界をふさぐ。子供のようにしゃくりあげ、ソラは拳でふかふかの苔を何度も叩いた。頭のどこかでこんなのみっともない、やめなきゃと囁く声はするのだけれど、ブレーキが壊れたように止めることが出来ない。
「もう訳わかんない……っ、いったいなにがどうなってるのよぉ……!」
一気に吐き出した反動でか、頭の芯がぼうっとしてくる。拳を叩きつけたままその場にうずくまるように顔を伏せて、ソラはまだ収まりきれない衝動をうめくように漏らした。肩でしていた息が緩やかに収まってくるあたりでようやく、冷静さがそろそろと戻ってくる。それと同時に無言のままの相手の様子が急激に気になりだして、ソラはうつむいたままぐちゃぐちゃの目元をごしごしとこすり、そおっと顔を上げた。
差し伸べた手をそのままに、彼はやや困惑した顔でじっとソラを見返していた。ぶつかった視線に、それがやや和んだ色に変わる。
「もういいか?」
「も……」
絶句した。先ほどの恐怖からきた脱力とは別の意味で力が抜けて、ソラは座り込んだままがっくりとうなだれる。なによもう、なんてやさぐれた気持ちに落ちかけて、それを振り払うように頭を振る。
この人にしてみれば、単純に猛獣に襲われかけた相手を助けたに過ぎないのだ。こちらの混乱や恐怖など知りようもない。いや、恐怖心くらいは判ってほしいけど。とはいえ、あんな恐ろしげな獣を相手に逃げもせず、渡り合って殺してしまうような人なのだ。同調しろというのは無理があるのかもしれない。
うつむいたままそんなことを考えていたソラの視界に、不意に太い腕が入ってくる。躊躇う様子も見せずに、その手はソラの両脇を捉えた。
「うひゃあ……っ!」
驚きとくすぐったさに同時に襲われて、思わず変な声を発してしまう。先ほどの再現のようにとっさにしがみついた腕は、今度は引き剥がされることはなかった。
「怪我は、してねぇな?」
そっと地面の上にソラの身体を下ろした男は、改めてというように全身に視線を注いでくる。なんとなく気恥ずかしさを覚えてやや身をちぢこませるようにして、ソラは上目遣いに相手を見上げた。こうしてみると、思ったとおり背が高い。
「ん、してない……あの、どうもありがと」
「ん? ああ、たいしたことじゃねぇから気にするな」
あんな死闘を演じておいてたいしたことじゃないと言い切ってしまうのも、何かすごい気がするが。おずおずと向けた礼の言葉にきさくに笑い返されて、なおさらさっきの態度に恥ずかしさを覚えてしまう。
「あと、あの、ごめんなさい……っ!」
膨れ上がってきたいたたまれなさに顔を見ていられなくなって、ソラは勢いよく頭を下げる。密かに期待していた声は、今度は返ってこなかった。ひんやりとした感覚に心臓を掴まれて、ソラは恐る恐る視線だけを上げる。そこにあったのは、先ほどと同じ判りやすい困惑の色だった。
「お前は、謝るようなことはなにもしてねぇだろ?」
あっさりいわれた言葉に、思わず目を見開いてしまう。なんだこの人、なんでこんな寛大なんだ、そんな疑問がぐるぐるしだして、ソラは動揺丸出しのあわあわした態度で思わず詰め寄ってしまう。
「したじゃんさっき! 貴方悪くないのに当り散らしたりとか……っ。助けて、もらったのに……」
言葉にするといっそう自分の駄目さ加減が浮き彫りになった気がして、ソラは言葉の途中からしおしおと頭をたれてしまう。その頭に、ぽんと大きな手が乗った。
がん、と、心のどこかを思いっきり叩かれた気がした。痛くも苦しくもなく、だけどきっと近いうちにそうなってしまうんじゃないかと思うような、そんな衝撃。
「気にするなって。俺の姉上もな、よくそうやってわーわー言うから。慣れてんだ」
「……」
なんだか、一瞬前の自分を不覚に思ってしまいそうなんですけど。
がっくりしそうになった足腰になんとか力を入れて体勢を立て直し、ソラは改めて相手を見上げた。調査員の卵としての自分、を再認識しつつ、相手に観察の目を向ける。
この星、CPO-2の進化レベルはH4だ。ということは、足元にまだ転がったままの獣や彼のような人間は、存在するはずがないということになる。だが、彼は明らかにこちらと意思疎通できるレベルの知性を持っており、身につけている具足も粗末ではあるがきちんと加工され、動きやすいように工夫されている。
なにより。彼との会話が成立しているということは、彼が使っている言語は翻訳メモリに登録済みの既知のものだということになる。
(いったいどういうことなんだろ……それとも、ここはCPO-2じゃないとか? でもジャンプ前にあれだけ座標も確認したんだし、違ってたら到着時点で母船のマザーから突っ込まれてるはずだし……)
判らない。だが、母船との連絡がつかない今、ここでこうして考え込んでいても事態は進展しない。
「で、お前の住む集落はこっから近いのか? よかったら案内してくれねぇか?」
「え?」
なされた意外すぎる提案に、思わず声を上げてしまう。まじまじと見上げると、彼は誇らしげに熱い胸を張り、にこりと笑った。
「ウルスの戦士ヴェイン、部族の定めに従い武者修行の最中だ。よって、一晩の宿を請いたい」
「……えーと」
どう、答えるべきだろう、思わず視線を泳がせてしまう。ここがどこなのかは判らないが、どこだとしても、自分がどういった存在なのかを相手に告げることは出来ない。とはいえ、ではいったいどう言えばいいのか。
「どうした? それともお前、まさか迷子なのか?」
微妙に情けない言葉を投げかけられて、一瞬もう頷いてしまおうかと思ってしまう。だが、それでじゃあ一緒に探してやるとか言われてしまったら、いよいよ後に引けなくなってしまう。そして確実に、ヴェインと名乗った彼はそう言い出すだろうと思えたのだ。
「えっと、いや、迷子って言うんじゃ……」
ごにょごにょと歯切れ悪く呟きながら、ソラは必死で頭をめぐらせる。いったいどう言えば、彼に不審に思われずにすむだろう。
本当は、多分適当なことを言って右と左に別れてしまったほうがいいのだ。ヴェインにこちらの事を知られる前に、ぼろが出る前に。一緒にいる時間が長ければ長いほど、つい油断してぼろが出てしまうことは間違いない。ましてや自分のやることだし。