緑の季節【第一部】
定時退社などめったにないこと。
外はまだ明るさの残る夕暮れだった。
足早に家路とは逆の、里実の実家へと足を向けた。
最寄りの駅から電車に乗り4区間ほど、駅からは徒歩で行けない距離ではなかったが、
ちょうど個人タクシーがドアを開けて停車していたので駆け込み、3分ほどで
里実の実家へと辿り着いた。
ドアベルを鳴らしインターフォン越しに「どうぞ」の声を聞くまではわずかだった。
覚士は玄関扉の前で深呼吸をすると、できるだけ明るく元気な声とともに扉を開け入った。
「こんばんは。覚士です。お邪魔します」
間口で靴を脱ぎかかると奥から義母が迎えに出てくれた。
「いらっしゃい。上がって」
いつも通りの物腰の柔らかな義母に覚士は少し安堵した。
玄関を上がって右手のリビングに入っていくとソファに里実が腰掛けていた。
「ただいま」
突然、里実の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「どう・・・」声を掛けるよりも早く抱きしめた。
里実は声を抑えながら覚士の胸元を濡らした。
「覚士さん、今日の診察でね。赤ちゃんじゃなくて、なくてね・・」
義母も一瞬息を詰まらせながら言葉を続けた。
「ちょっと厄介な感じなの。里実に連絡貰ってすぐ病院へ行って先生のお話聞いて・・」
里実は覚士の胸で嗚咽を洩らした。
覚士の抱きしめる腕に力がはいった。
それからの話は、それまでじっと聞いていた義父の言葉に変わっていた。
義父は冷静に淡々と説明を続け、覚士はさも自分が先生の前で聞いているかのように思うほど状況がわかった。
医師から指定された診察日、覚士は会社に休みを貰いふたりで病院へ出かけた。
医師の病状説明は、ほぼ里実の父親が話した事と同じであり、今後の治療についての
説明を聞いた。
治療を始めてからの里実は、以前と変わらないほど健康に見えた。
もちろん、辛い日も少なくなかったが、里実は気づかれないようにと心遣いながら覚士の
好きになった屈託のない笑みを絶やさないように家庭での生活を送った。