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The Balance

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「昨日、病院に行ったの。……妊娠していたわ」
「--そうかよ」
 煙草を灰皿に押し付け、女の身体を引き寄せる。
「無理に抱いて、悪かった」
 女が息を呑んだ。そう受け取られるとは思っていなかったような、そんなニュアンスだった。
「男か? 女?」
「……まだ分からない」
「そうか。……寝る」
 女を胸に抱いたまま、寝床に就く。
(これで人並みの生活をしろって、そういうことだろ)
 むしゃくしゃしたが、女の体温を感じるだけで我慢した。

 更に時が過ぎ、女の腹も膨れていた。あと一、二ヶ月も経てば、ただの一般人だ。
 それが良いはずがない。だが、隣にいる“荷物”を棄てるべきか、背負うべきかは分からない。
 そんな普通の人間が考えるような悩みに冒される自分に嫌気が差し、酒を浴びるように飲む。性欲を頼れなくなった木偶の棒が、選んだ最後の逃げ道だ。
「……アドルフ。あの」
 女が躊躇いがちに口を開く。アドルフがこの女を選んだ理由は、彼女が口下手だからだった。
 ただ、何か重要なことがあると話しかけてくるのだ。最近、それが分かるようになった。
「何だ」
「……わたしと逢った時からずっと、あなたは何かを我慢しているように見えるの。ねぇ、どうなの?」
 --そして、的確に彼女はアドルフを突いてくる。
「何でそう思うんだ。別に俺は我慢なんざしちゃいないぜ?」
 うそよ、と女は頭を振った。
「あなた、一回もわたしに笑ったことない。心だけ何処かに行きたがっているのを、わたしで留めている。……それがわたしとあなたにとって幸せ?」
「……」
 人並みの幸せなど、初めから求めてはいない。無理に求めても虚しいだけだと、アドルフには分かっていた。
 そのことに、自分を受け入れてくれた彼女も気付いている。
「--アドルフ、あなたのしたいようにして。気の済んだ頃に、帰って来てくれれば、わたしはそれが一番幸せ」
 女が微笑む。頬に幾筋もの涙を流して。
「--それで、本当に良いのか? 戻って来ないかもしれないぜ」
「……この子がいるから、堪えられるわ」
 膨れた女の腹にいる、自分の子供。
 検診で男の子だと言われた、と前に言っていたのを思い出した。
「……アンドリュー、子供には、そう名付けてやってくれ」
 女ははっとしてアドルフを見つめ、涙をそのままに深くうなずいた。
「じゃあな。お前に逢えて、良かったよ。色々、すまない」
 再び女が頭を振る。
「・・・・・・わたしも、逢えて良かった。さよなら、アドルフ」
 留まる最後の一線から、女が背中を押す。
 人並みの幸せという領域を外れ、アドルフ・ロエフは忌避の領域へ舞い戻った。



“よう、ジジイ。二年ぶりだな。生きてるようで何よりだぜ”
「--私は二度と話すつもりはなかったのだが。何の用だ、アドルフ・ロエフ」
“あんたが何言おうと、この件はいつか片を付けるべきだ。あんたや俺が死んだって、誰かが解決しなきゃならない。
 ああ、自分の為に言ってんじゃねえよ。これは世の中の為になることだ。世界という天秤でこの件を計ってみろ。見事に右に傾くぞ”
 右--タカ派にとっての両刃の剣。暴かれれば勢いはなくなり、そうでなければ発言力は強まる。世界を動かす原動力になるだろう。
「悪いが、アドルフ。私は君に話すことは一つしかない。
 君が再び日本を訪れた時、ローンという男はいない」
“どういうことだ?”
 答える義理はない。電話を切り、書斎へ戻る。
「--さて」
 万年筆をとり、手紙を綴る。
 もし彼女がこの運命を自ら受け入れた時、生き残ることが出来るように。

     ◇


 二年ぶりの日本は、また様子を変えていた。都市開発が更に進み、高層ビルも建て始めている。
 戦前から生きる者にとっては、敗戦で荒廃した場所がこう発展するとは思えなかったことだろう。
 だが、ローンの住む下町の風景はほとんど変わっていない。そこだけが特別な枠組みがあるかのように。
「さて、罵声を浴びに行くかな」
 インターフォンを鳴らすと、あの女性が現れた。
 アドルフの顔を見るなり、ぎっと目を細める。
「久しぶりだな。ローンのジジイに会いに来たんだが、いるか?」
「--……わ」
 わなわなと震える声、今にも飛びかかりそうな気配。これほどまでに嫌われていたかと虚を突かれた。
「--……だわ」
「ん?」
 だが、声には力がない。
「……っ、ローンは、父は、死んだわ!!」
「……!!」
 彼に電話を入れたのが、アメリカを発つ一週間前。それからすぐに亡くなったというのか。
(--いや……)
 ローンの最後の言葉が、思い出される。
 彼は未来が視えると言った。ならば--。
「--なんだ、くたばったのかよ、ジジイ」
 ゆらりと踵を返す。もう彼に用はない。
「もう二度と、家には来ないで……。これ以上、私たち家族を苦しませないでちょうだい!!」
「--邪魔したな」
 背中で叫びを聴きながら、蓮峰の家を後にする。
「結局、あんたは俺を認めやしなかったな。だが、この件は諦めないぜ。世界の天秤、元に戻すまでな」
 自分の存在証明など、ちっぽけな望みはもういらない。
 名は残らずとも、この世の軸を動かす。ただそれだけを願う。
(そういう人生も、アリだよなぁ)
 新しい煙草を胸ポケットから取り出す。
 吐き出した紫煙の先には、斜陽が見えた。
 その沈む側から、一人の少女が歩いてくる。長い黒髪を揺らし、心ここに在らずといった様子で。
 目は冷め、この歳で達観したような気配を人に見せる。
 ちらり、と少女がこちらを見た。

 ぞくり。

 背筋が凍る。
 アドルフには見えた。この少女が、何にも染まらない人間になるのが。
(こいつは--)
 少女は何事もなかったかのように去っていく。
 アドルフが訪れた家へと。
(--本物だ!)


 それから更に十一年--。
 日本は不景気に喘ぎながらも、一部は活気づいていた。ローンの家の周りも、新たに登場した資本力に屈している。
 ただ、その家だけは変わらずある。
 自分は老いたが、今が旬の若さを武器にする人間もいる--この家に。
(かと言って、家にゃお局様がいる。ここは外堀から埋めるか)
 金を使えば、いくらでも人手は雇える。出来れば若く、遊び盛りの男性が良い。柄が悪ければなお最高に良い。
「勝負と行こうか、な」
 周りに気付かれる前に退散する。“彼女”が独りになる時間帯は調べてある。それまでに人手を雇おう。
 胸は高鳴りを抑えられず、今までで一番ハイになっていた。

 家より十五分歩いた所に、裏通りがある。“彼女”の通学路だ。ここなら邪魔は入らない。
 昼間であっても人気がなく、何処か薄気味悪い路地だ。何度か確認をしたが、ここを悠々と歩くのは“彼女”だけだ。度胸があるのか無関心なのか、“彼女”にとっては普通の道でしかないらしい。
 雇った人手は五人。近くのコンビニにたむろっていた連中だ。ある女性を捕まえてくれれば良い、出来なくとも金を払うと持ちかけると、二つ返事で彼らは乗ってきた。
 ほどなくして、“彼女”が現れた。写真からでも遠目からでも、えもいえぬ圧迫感を感じさせる人間が、アドルフの方向へ近付いてくる。
作品名:The Balance 作家名:竹端 佑