The Balance
いくら同業者だったとはいえ、現役と引退した人間では差がある。体力の面で、特に劣るはずだ。
「……俺にハンデやってるようなもんだぜ? ジジイ」
「ハンデをくれてやった? 機会の間違いだ、アドルフ・ロエフ。老いぼれと戦って、負けるのが怖いか?」
「は、そんなワケないだろ。良いぜ、エリートの腕前、見せてもらおうじゃねえか」
ここで初めて、ローンが微笑んだ。今にも消えそうな笑みだったが、何もかもお見通しだと言わんばかり。それがアドルフには気にかかった。
ローンは家の裏庭にアドルフを案内した。
密集した都会にあって、庭の広さは驚きだった。長さ八メートル、奥行き五メートル。狭い家であれば、一軒建てられるだろう。
「元々、この家系は宮司をやっていたらしい。明治に統廃合されたが、ある程度の土地は残された。森を持っていたとか、妻は言っていたがね。それも戦前の話だが」
アドルフを見透かすように、ローンが説明する。
古くからこの土地に住んでいた一族ということか。
とにかく、足場は十分。間合いも取れる広さだ。
「もう一度訊くぜ。俺にハンデを与えてるつもりなら、止めとけ」
アドルフは“気”を操る、とある格闘術を修めている。国際警察、特に情報部に所属した人間であれば、必ず習得させられるもの。一年に一度、組織内での技能大会もあるほどだ。
その大会で何度も優勝しているアドルフにとって、これほど都合の良い条件は無かった。
「言ったはずだ。ハンデではなく、機会を与えたまでだと」
だが、ローンの態度にうろたえる様子はない。両手をぶらりと下げ、ゆったり構えた姿は自信に満ちて見える。自分の構えを先に見せる気はないようだ。
アドルフは地を蹴った。初動を見せない踏み込みで、一気にローンとの間合いを詰める。
いくら彼が腕に覚えがあるとはいえ、瞬発力と反射神経では劣る。慌ててガードしようと隙を見せれば、アドルフの勝ちだ。
「ふんっ!!」
腹部目掛け、下段から掌底を放つ。
“気”を込めた掌底だ。当たれば身体全体に波動が響き渡り、脳震盪を起こす。
それにローンの左手が軽く添えられた。
まるで初めからそこにあったかのように。
(っな!?)
とん、と掌底が受け流される。
ローンの身体は小さく左に、アドルフの身体は大きく右に流された。
「……く」
軽く受け流されたはずの掌底。だが、その手首は赤く腫れていた。後で黒に近い色に変わるだろう。
(“気”を俺に返してきやがった。こいつ、身体の気脈がハンパねぇ)
“気”を操る武術は、基本的に誰でも会得出来る。だが、“気”をカウンターするとなると、相手の“気”を受け入れつつ、己の“気”で増幅させる容量が必要になる。
その容量が身体に走る気脈。第二の血管ともいうべきものだ。
(だが、まだ片手は使える!)
息を整え、再び間合いを詰める。ローンは自分から飛び込む男ではないらしく、攻める素振りが全くない。
「ふっ!!」
上段の手刀を、ローンが弾く。
その瞬間に“気”を絞る。
ぱぁん、と風船が割れるように“気”が爆ぜた。
「……!」
“気”のカウンターを返され、ローンが目を丸くした。
(力圧しなら負けねぇ!!)
“気”の反動でローンの上体が浮く。
(もらった!)
切り返した手刀で脇腹を叩く。
ローンがそれを辛うじて腕で受けたが、余り関係ない。
手刀はただの囮。本命は足払いからの連続攻撃。
確実に仕留めるならば、真っ直ぐでは足らない。偽りを混ぜてこそ、息の根は止められる。
(とった……!!)
ふわり、と風が起きた。
ローンの姿が、アドルフの前から消えていた。
足払いが空を切る。まるで時が止まったかのように、その瞬間は長かった。
「速い。君は研ぎ澄まされたナイフだ、が--」
「くっ!!」
声の方向--背中越しのローンに振り返りざま、使えなくなった片手で牽制する。
だが間に合わない。
ローンの貫手は、アドルフの喉仏に突き刺さっていた。
“気”は込められていない。
「……っ」
貫手が喉から離され、思わず息を吐く。
冷めた青い瞳は、アドルフを無関心に見下していた。
「もし私が本気なら、君は気管を破られて死んでいる。
--分かったら帰るんだ、アドルフ・ロエフ」
ローンは踵を返した。もう話すこともないと言うように。
「待て!! だったら何故、アレを本に隠した!! あんたは誰かに、国のやったことを伝えたかったんじゃないのか!? あんたは許されたいんだろう!?」
ぴたりと、ローンの歩みが止まった。
「アレは、君のような功名を求める人間に残したつもりはなかった。ましてや、好奇心からのものなら尚更だった。
--ああ、ヤキが回ったのさ。未来を読む余裕のなかった、昔の私を殺したい。
何度でも言う。君では解決出来ない。それに君の言う偏った天秤とやらも、私の重さがなくなれば真の公平を手に入れるだろう」
自嘲気味に答え、ローンは裏庭から姿を消した。
ニューヨークに戻ったアドルフは、情報課長に呼ばれた。
「アドルフ、日本に何しに行っていた?」
「何ってボス、観光だよ。ちゃんと有休出してたろ?」
課長はあからさまなため息を吐き、両肘を机に手を組む。
「では、有休まで出して観光目的と偽り、何を調べていた?」
いつになく鋭い質問に、合点がいく。
既に手が回されている。ローンの顔が浮かんだが、彼ではないだろう。今もなお権力を持つ何者かの仕業だ。
「……誰の差し金か、教えてくれるか? ボス」
「お前に尋ねる権利はない。訊いてるのは俺だ。アドルフ、正直に言え。そして、追うのを止めろ」
(ふん。99%分かってるだろ、お前)
居心地は案外悪くはなかったが、こうなると組織の狗だ。
アドルフ・ロエフという人間の居場所ではない。
「良いぜ、そっちがその気なら、俺は辞める。昼には辞表持ってくるから、断るなよ? ボス」
「アドルフ!!」
課長の怒号が飛ぶが、無視して部屋を抜け出した。
二年が過ぎた。
あれからの情報収集は、困難を極めた。監視されているようであったし、迂闊に動き回れなかった。
そこまでして何故この事件を追うのか、アドルフでもよく分からなかった。 国際警察を辞めた以上、もう名を上げることは不可能だと言うのに。
興味だけで動いているのかと問うてみたが、それも違う。胸は躍らず、心が冷めていく感覚に陥る。
それが怖くて、女に走った。
求められるだけ何度ともなく、女が崩れ落ちても止めなかった。
(……俺ぁ、鬼畜だな)
煙草をくゆらせながら、胸の中で眠る恋人らしき女を見下ろす。
彼女はアドルフに蹂躙されても文句一つ言わず、受け入れてくれる。それを良しとし、何度も自分を刻みつけた。
(……悔しいが、俺には荷が重い件か。完敗だよ、ジジイ)
ふぅー、と煙を吐く。それに刺激されたか、女が目を覚ました。
「アドルフ……」
「起こしたか、悪いな」
「……いいえ」
女は首を左右に振り、アドルフをじっと見つめた。
「何だ」
「……言わなきゃいけないことがあって」
女はアドルフの胸から起き上がると、真っ正面に目を据えた。
作品名:The Balance 作家名:竹端 佑