絵画レビュー
フェルメール「地理学者」
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鑑賞者は、絵画を見るに当たって、原則的に異質のものと出会う。自分の肖像画や自分の住み慣れた街の絵を見ることはほとんどないはずだ。だから、鑑賞者は、自己と絵画の差異に直面するわけである。
ところで、言語が差異の体系であることを類推して、人間もまた差異によって規定されていると考えることができる。私は17世紀の人間ではない。私は地理学者ではない。このような無数の差異によって私は規定されているのである。
とすると、鑑賞者は絵画において自己と異質のものと出会うことにより、差異に気づき、その差異によって自分を再び規定しなおすことになる。私は17世紀の人間ではなく21世紀の人間である。私は地理学者ではなく受験生である。などなど。鑑賞者は、差異に直面することにより、自己の特殊性を改めて確認するのである。
だが、絵は黙して語らない。だから、人は、絵の中の地理学者に質問することによって彼の内面を知る、そんなことはできない。人がもし地理学者の内面を知ることができたなら、地理学者の内面と自己の内面の差異を知ることができる。人が外面よりむしろ内面によって多く規定されるとするならば、地理学者の内面を知ることによって、よりよく自己を確認することができる。だがそれはできない相談である。
鑑賞者の絵を見ることによる自己確認はこのようにして不完全なままである。だが、不完全なことは悪いことではない。自己がより多く確認されると言うことは、自己がより多く暴かれると言うことだ。たとえば相手が幸福な幼年時代を過ごしたことを知れば、自分の不幸な幼年時代を改めて確認してしまうことになりかねないのである。
絵画は優しい。絵画は、鑑賞者の内面を必要以上に暴こうとしない。鑑賞者は、都合の悪い自己規定をしなくて済む場合が多いわけだ。