絵画レビュー
黒田清輝「読書」
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描くということは、画家の視線によってとらえた事物を一つの世界の中に構成するということだ。画家の視線はひとつの世界を作り出していて、その視線によって支配することにより対象を自らの世界の中に閉じ込めるのである。ところが、この視線による対象の世界への幽閉は、常に破綻の兆しによって脅かされている。画家による世界独占を最も顕著に破壊するのが、対象としての人物である。なぜなら、人物もまた彼独自の視線をもっており、彼独自の世界を構成するからだ。画家による世界の構成に、常に他なるものとしての開かれを導入するのが描かれた人物のまなざしである。
さて、描かれた人物が画家を見返しているのならばいい。そこには、見て見られるという閉ざされた互包関係があるだけであり、画家と人物は相互に構成しあってそこで二つの世界は同時に閉ざされる。ところが、この作品のように、人物の視線が別の方向を向いているときは話はまた変わってくる。画家の支配する世界の中に、他なる開かれを導き、更にそれが画家へと還帰せずに画家の知りえぬ方向へと別の世界を開いていってしまうからだ。画家は人物と視線を交換し合ってそこで互いに完結することができない。画家の与り知らない方向へと、人物の世界が開かれていってしまい、そこにはもはや画家の独占支配は及ばない。
ところが、実は、このような世界の破綻が起きるのは何も人物画に限ったことではない。あらゆる対象、あらゆる描かれたものは、実は画家の支配をのがれている。そもそも、画家は自らの身体と絵具などの媒体を介してしか絵を描けないのである。そこに完全な支配はあり得ない。さらに、仮に対象を支配したつもりでも、画家の与り知らない意味を対象はいくらでも開いていく。それは静物画であっても変わらない。画家は、最初から最後まで対象の他者性を払拭することは不可能なのだ。