絵画レビュー
アイエツ「エルサレムの近くで飢え渇く十字軍」
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人が多いときに感じる過剰感、雑駁感というもの。全体を把握しようとすると情報を処理しきれずに頭脳が硬直してしまう。だから、まずはひとりひとりに注意して見ていくしかない。
例えば似たような絵画であっても、ひとつの花瓶を描いた作品とひとりの人間を描いた作品では、絵の持つ圧力が違ってくる。それは、人間は人間に対して積極的に働きかけてくるからであり、また人間の姿の持つ大量の意味と精神の広大な領域が人間の絵には備わっているからでもある。一人の人間でさえ情報の圧力が強いのだから、所狭しと様々な人間が一枚の絵の中に描かれると、もはや複雑な方向性をもつ力で押しつぶされあるいは引き裂かれそうになってしまう。
アイエツは鑑賞者に不可能を強いているのだ。というのも、一筋の時間経過では、人間はせいぜい画面の中の一人の人間についてしか、何をしようとしているのか、どんな人なのかなどについて思いをいたすことができないにもかかわらず、多数の人間を、同一の画面に描くことで一筋の時間経過の中に押し込もうとするからである。
一筋の時間経過の中で一人の人間が把握されるとき、その人間は人間としての全体性を備えた形で把握される。だが、一筋の時間経過の中に多数の人間が押し込まれるとき、それらの人間たちはもはやそれぞれ人間としての全体性を備えていない。それはもはや瞬間的で表層的な画像でしかないだろう。
アイエツは多数の人間を同時に鑑賞者にぶつけることによって、描かれた人間を希薄化させてしまっているのだ。もはや絵の中の人物は完全な人間ではなく、ただの表層的な画像に過ぎない。だから、鑑賞者は、それらの人間たちの全体性を回復するために、画面を分割してひとりずつ鑑賞するしかないのである。この絵画はあからさまに分割されることを求めている。そして、この絵画の全体的な把握は著しく困難である。この絵画は分割されるべく描かれたのかもしれない。