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桜の頃

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     −2−

和実は、帰り道、ほんの1、2時間のことを頭じゅうに思い浮かべていた。というよりそのことしか考えられない様子だった。
だが家まではそれを振り返るにはあまりにも短い距離であった。
「おかえり。和実なの。」
リビングからの母の声に現実へと引き戻された。
和実は、自室のドアを通り過ぎ、母の居る、美味しそうな匂いのするリビングに入って行った。
「ただいま。今日何作ってるの?手伝うことある?」
今は、自室で深呼吸をしたいところだが、それを悟られたくない気持ちだ。
「ううん、大丈夫よ。ゆっくりしてていいわよ。」
いつもと変わらない空気。

和実の母は午前から夕方まで近所にパートタイマーで働いていた。
夕飯の支度となると独り戦争のようである。

「ふうん。部屋に居るね。」
部屋に入ると机の上のパソコンのスイッチを入れた。
画面が立ち上がるのをぼんやり見つめ、首を少し傾けながら再び思いを空(くう)に浮かべていた。
デスクトップの壁紙はどこかのサイトで見つけた『ラピュタ』。想像の枠を広げてくれるような美しい画像。
マウスでお気に入りの動画サイトへとクリックして移行し、ヘッドホーンで音響も楽しむことにした。
母の声が掛かるまでのあいだに 先ほどの出来事は薄れかけていった。

「ただいまー。」
和実には、3才年の離れた兄がいる。
「今日は?お、ハンバーグ。サラダ山盛り。野菜食いてー。」
小振りに作られたハンバーグに母特製のソースをかけて数個は食べるほど、お気に入りの献立だ。
今日は、そのせいか兄の口も軽い。
その話に耳を傾けながらも、どこか気が入らない和実だった。
三人の夕食の時間はほどなくして終わり、兄は部屋へと席を立った。
「ごちそうさま。美味しかった。片付け手伝おうか」
「いいわ、のんびり済ませるから。和実もすることがあればしてらっしゃい。」
「うん、そうする。」
和実も部屋へと戻りそれぞれの時間を過ごした。


根岸和実はこの町で生まれて育った、短大部2年に通う19歳。
就職活動も始まるのだが、あまり積極的になれないでいた。
思いと現実の間にあるジレンマに突き当たっていた。
毎日、追われるように行われる就職ガイダンスに 入学の時に購入したビジネススーツを着て、
まだ慣れない革の靴はいっそう和実の苦痛になっていた。
帰宅後も 大きな溜息。
そんな様子を母は「ほら、甲冑を脱いでリラックス」と笑って迎えてくれる。
そんなありきたりの生活が流れていった。


あの公園の横にある桜の木も もうすっかり新緑の葉に変わっていた。

その日もそんな一日で終わるはずだった。

その日は少し遅めの夕食となった。
和実の父は友人と会う約束のため、家での夕食は取らないからと、母は片付けを始めた。
和実も和実の兄もそれぞれの部屋へと入った頃だった。
家の固定電話が鳴った。
おそらく出かけている主人の電話とばかりに母は電話に出た。
「はい。」
最近は、勧誘やセールスの電話が多いため、母は名を名乗らず電話を受ける。

少しあった沈黙・・・
用件を聞いた母は、受話器を保留にした。

和実はベッドの上に体を伸ばしてCDに耳を傾けていると ドアをノックされた。
コツンコツン・・・
「はい。」
「カズー 電話。『しげくら』って男の人。知ってる人?」
和実には思いも寄らない名だった。
「う、うん。」
「じゃあ。」
和実は入り口に立つ母をすり抜け、電話のあるリビングへと向かった。
比較的おっとりとした和実であったが、自分が緊張しているのが可笑しく思え、口先がダックのようになった。
そんな口元で笑みを浮かべるときの和実は幼い頃からそのままで可愛い。

「はい。和実ですが、、、。」
和実は振り返り、母の行方を探した。
母は隣の兄の部屋へとお邪魔に入ったようである。
(あの、先日公園で会ったしげくらですが、覚えていますか?)
「は、はい。」
(ああ良かった。こんばんは。こんな時間で良かったですか?)
和実は薄れ掛けている記憶の声を思い出しながら、この電話の相手がその人であるかを確かめていた。
(あの、時間かかったけど 出来上がったから・・会ってくれますか?)
電話の圭介は、あの少しお調子の良い雰囲気が感じられなかった。
和実は社会人の年上の男性の態度にはっとした。
「えっと・・。」
(出会った場所でどう?)
「あ、はい。」
そう答えるだけで緊張していた。

約束の日時は圭介の話のままに決まった。
〜二日後の週末午後3時。あの展望公園ベンチ〜

電話を切ったあとの和実に母と兄の質問が飛んだことは言うまでもない。
「着いていったろっかぁー。」
兄の妹に対する激励の言葉に違いない、母もにこやかに見ていた。

作品名:桜の頃 作家名:甜茶