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せき あゆみ
せき あゆみ
novelistID. 105
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潮風の街から

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沈没船の珈琲



もう、記憶もおぼろげなほど、幼かった頃のこと。
ある日、漁師の父が木箱を抱えて沖から帰ってきた。その数日前、近くの海で貨物船が座礁したのだが、それはくだんの船から流れ出たものに違いなかった。
海を漂っていたというその木箱は、幼いわたしには、まるで玉手箱のように思え、父がふたをあけるのをわくわくしながら見つめた。

中に入っていたのは白い煙ならぬ、青いバナナと洋酒、それにラベルのはがれた大きなカンヅメだった。
漁協のスピーカーは、検疫がすんでいないのでバナナを食べないよう、注意を呼びかけていたが、そんなことはだれもきいてはいなかった。
後に聞いた話によると、よその家では米びつの中に保存してしっかり甘くなったのを食べたという。
 
あまりにも未熟なバナナだったので、わが家では食べずに捨ててしまった。洋酒は、叔父が飲んでみると、海水が入っていてだめになっていた。
最後に残ったのは、カンヅメだ。
桃かミカンかはたまたパイナップルかと、どきどきしながら開くのをまった。
半分ほどひらいたとき、カンの中からいい香りが立ちこめてきた。
「わあ、コーヒーだ!」
わたしと姉は思わず声を上げた。

早速飲んでみようとしたが、飲み方がわからない。なにしろ、インスタントコーヒーもあまりでまわっていなかった時代のことだ。豆をひいた本物など生まれて初めてだった。
しかたなく、カップに粉と砂糖をいれ、お湯を注いでから上澄みをすすった。トルココーヒーさながらに。

すすけた古い家の中にあふれる香りは、異国の雰囲気を漂わせ、口の中に広がるコーヒーの苦みは、一瞬わたしを大人になったような気分にさせてくれた。
「苦い」と、顔をしかめた姉。
「粉っぽい」と、いいながら平気で飲んでいた母。
「まずい」と、いきなりはき出した父。
家族の反応は様々だったが、それ以来、わたしはコーヒーが好きになった。

あれから、ずいぶんいろいろなコーヒーを飲んだけれど、あのときと同じ香りのものには巡り会えない。
そして、コーヒーをいっさい口にしなかった父は、亡くなって二十年になる。
それでもコーヒーを飲むたびに、あの日の父の横顔が、香りの中に鮮やかによみがえってくる。

                                  (執筆 2000年)
作品名:潮風の街から 作家名:せき あゆみ