優しい手
娘を見た。もう限界であることは明らかだった。ほんのちょっと、何かがあったなら、娘の胸が張り裂けてしまうような気がした。けなげに必至に自分の気持ちを抑えているのが分かった。同時に、どんな慰めの言葉よりも、今は静かに見守ってやるのがいいとも。
「分かっていました。ずっと前から……」
「そうか」
「分かっていました。ずっと前から……」と娘は繰り返した。
「でも、どこかでこれは現実じゃないと思っていました」と娘は泣きだし、部屋を飛び出た。
そばにいた若い看護婦が言った。
「先生はどうしてそんなに淡々と言えるんですか?」
「君に何が分かる」と怒鳴りつけたかったが、無視した。それよりも飛び出して行った娘のことが気になり、あちこち駆けずり回り娘を探した。
娘と一郎は庭にいた。
娘は一郎の胸の中で泣いていた。一郎も泣いていた。
一郎は「お前がかわいそうで、この胸が張り裂けそうだ。お前の悲しみを背負ってあげることもできない。とても情けない」と呟き、娘の涙をそっと拭った。
娘は少し微笑んだように見えた。
そのとき、蛍が死んだときのことを思い出した。母親は「おや? 泣いているの? 蛍に限らず、みんな、死ぬんだよ」と涙で濡れた頬を優しく拭ってくれた。優しい手だった。何十年経った今も覚えている。
娘もきっと父親の優しさを忘れないであろうと思った。優しく愛された思い出さえあれば、どんなに厳しく辛い現実があったとしても耐え忍ぶことができるとも思った。