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優しい手

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『優しい手』

 生まれれば死ぬということを教えてくれたのは母だった。その人生を通じて、生と死を教えてくれた。

小さい頃の話だが、夏の日、母と一緒に蛍狩りをしたことがある。風もなく、蒸すような暑い夜で、朧月がうっすらと地上に明かりを落としていた。
 広い水田のあちこちで小さな光が飛び交っていた。
「音を立てちゃいけないよ」
「蛍は静かなところが好きなんだ」と母は言った。
「あ! いた!」と指を差した。
 すかさず、母は大きな手でぱっと捕まえた。
「ほら、捕まえた」と大きな手を少し開いた。小さな黄金の光が灯ったり消えたりしている。蛍を捕まえて、ずっと前に買ってもらった虫かごに入れた。
「そこにもいるよ」と母が言った。
「捕まえてごらん」
 母の真似をして捕まえようとしたが、蛍はすばやく逃げた。
「お前は不器用だね」と笑った。
 母があっという間に五匹か捕まえた。
 風が出てきて、瑞穂の上をざわざわと音を立てて走った。
「もう帰ろう」と母が言った。

 次の日から、夜になると明かりを消して虫かごを眺めた。蛍の光が灯って、とてもきれいだった。が、ある日のこと、蛍は動かなくなった。そのことを母に言うと、
「死んでしまったね。蛍は短い命から」
「死んだの? せっかく捕まえたのに」と涙声で言うと、
「おや? 泣いているの? 蛍に限らず、みんな、死ぬんだよ」と母は涙で濡れた頬を優しく拭ってくれた。
 その母も二十四歳のときに死んだ。蛍のようにあっけない死だった。しかし、短くとも、自分が大人になるまで生きてくれた。それはとてもありがたいことだと思っている。
 
あれから十年経ち、自分は医者になり、がん病棟の医師になっていた。
 秋のことである。一人の男が入院してきた。彼の名は本間一郎。
 後で知ったことだが、一郎の半生は悲劇そのものだった。妻と折り合いが悪く別れ、娘ハルナが五歳になったときである。それからというもの、娘と二人で生きてきた。不器用な男で何をやってもうまくいかず、職を何度も変えた。ハルナには、買ってやりたいものもあっても、満足に買ってあげられなかった。 父の苦しい状況を知っていたのであろう、娘は何一つ何かをねだったりしなかった。のみならず、学校から帰れば、まず父親のために食事をしたり、お風呂を沸かしたり、家事の一切をした。娘はそれでも幸せだと父親に言っていたという。だが、貧しく、つつましく暮らす二人に、神はさらに過酷な運命を強いた。一郎はがんにかかったのである。病院に来た時は、もう手の施しようのない状態だった。
 その日は朝から穏やかだった。庭から金木犀の香りが開けた診察室の窓から忍び込んできていた。
 一郎を診察室に呼び余命宣告した。
 彼の目に薄らと涙を浮かべた。ずっと押し黙った後、「娘はまだ十七歳です。何と言えばいいのでしょう?」とたずねた。

 数日前、娘が訪ねてきたことを思い出した。
娘は「お父さん、大丈夫ですよね?」と聞いたのである。
「私が働けるまでは元気に生きてほしい。だって何一つ、親孝行できなかったから」と泣きながら訴えた。
 溢れる涙を見ていたら、とても本当のことは言えず、「大丈夫だ」と言ってしまった。
 涙を浮かべながら嬉しそうに「お願いします。助けてください」と何度も頭を下げた。
 顔を上げたとき、優しい清んだ心を映すかのような、とてもきれいな目をしていた。その純粋な瞳に見つめられたとき、思わず顔をそむけてしまった。
「先生、約束してください。助けると。本当に、まだ私は何一つ親孝行していないんです」

 一郎はもう一度、「娘に何と言えばいいのでしょう?」とたずねた。
 自分のときのことが蘇った。愛する母を失ったとても辛さかった。心の中に大きな空洞が生まれ、それは何十年と経っても埋めることができなかった。大人になっていたにも関わらず、その悲しみは耐えがたいものだった。
「先生にこんな話をするのはおかしいでしょう。でも、苦しいのです。娘に何もかも、告白して、現実を受け止めてもらいたいという気持ちがあります。その一方で、ずっと二人で暮らしてきました。自分が死ぬと分かったとき、娘が壊れてしまわないとも心配しています。苦しい生活の中で、娘には服の一着も買ってやれませんでした。もうこれ以上、娘には気苦労をかけたくないのです」と一郎は泣いた。
 何かを言ってあげたかったが、言葉が出なかった。
「自分の母の死はあまりにもあっけなかった。死というものが前もって分かっていたら、どんなによかったと悔みました。分かっていれば、きっとたくさんの親孝行をできたはずです。親孝行ができなくとも、自分の中にあった感謝な気持ちとかを伝えられたはずです。でも、若すぎたのでしょうか? 母の死の間際でも、今考えると自分のことばかり考えていた。死んだとき、心の中に大きな空洞が空きました。その大きさにどうしていいのか分かりませんでした。その悲しみの穴は今も塞がっていません。……娘さんもきっと、ある日、突然、死んだら、深い悲しみのどん底に突き落とされるでしょう。そして、そこから這い上がることは決して容易なことではないはずです」
「残酷ですね」と一郎は肩を落とした。
「そうならないことを願っています」
 一郎は黙った。
「何もできなくとも、二人で残された時間を大切に生きるのは、決して無意味なことではありません」
「でも、まだ十七歳の子供ですよ。とてももうじき別れが来ると言えません」と不満を訴えるように言った。
「確かに……十七歳にしては厳しい現実です。自分は二十四歳のときに母の死を経験したが、そのときもあまりの厳しい現実に神を捨てました。ずっとクリスチャンでしたが」
 一郎は起き上がり「先生から、私の病気のことを言ってもらえませんか」と深々と頭下げた。
 イエスともノーとも答えなかった。
 一郎は痩せていった。それは誰の目にも明らかだったが、娘の心に“死”という言葉が浮んでいないように見えた。それというのも明るく振舞っていたから。だが、それも当然のことに思えた。一体、誰が愛する者の死にいくのを客観的に捉えるができるといのか。

 金木犀は散り、庭の灌木が色づき始めてきた。
 とうとう本当のことを娘に言うために診察室に呼んだ。
「お父さんのことで、とても大切な話があるんだ」と切り出した。
娘はまるで凍りついたかのように強張った顔した。
 病状を淡々と説明した。まるでロボットが喋るかのように。
娘は黙って聞いていた。顔をあまり見なかったが、その眼から涙がこぼれてきているのが分かった。
 娘は涙声で「本当にもうだめなんですか?」
 十七歳になったばかりの少女に伝える言葉ではないと知りながら「とても残念だが、かなり厳しいと言わざるをえない」と淡々と答えた。
 娘は黙った。
 泣きわめくのかと思った。子供だから、それも当然だと思った。むしろ、その方がいいとも思った。けれど、娘は感情をあらわにせず、「先生、本当のことを教えてくれて、どうもありがとうございます」
 その大人びた対応に思わず、「どうして?」と呟いてしまった。
作品名:優しい手 作家名:楡井英夫