「忘れられない」 第二章 すれ違い
「そう思いたいですね。証拠はありませんが、死ぬほど落ち込む失恋なんて、普通ではありえないです。進もうとしても進めないもどかしさ、相手の男性の優柔不断さなどが重なって、追い込まれた気持ちになったのではないかと・・・違いますでしょうか?」
「私はお恥ずかしいですが32年間の恋を追い続けて今に来てしまいました。他の誰ともお付合いする気がしなかったのでそうなってしまいました。もちろん相手の男性は一度結婚しました。そうです、捨てられたのです。しかし、気持は変わりませんでした。不思議なんです・・・その人を諦めたら、自分が自分でなくなってしまうように思えるんです」
「有紀さん・・・そのように強い想いを持ち続ける恋なんて、初めて聞きました。あんなに夫の事を愛していたのに、簡単に別居してしまった自分が情けなく思います。有紀さんのような想いが本物なんですね。娘は本物の恋をしていたのかも知れません・・・」
仁美の言った「本物の恋」その言葉に有紀は頷いていた。
「仁美さん、とにかく娘さんの意識が戻ったら、よく話を聞いてあげて、味方になってあげて下さい。元気になって戻られたら、ご一緒にお話でもしましょう。私も強い想いの裕美さんを知って、勇気付けられました。昨日まで告白を悩んでいましたが、気持がとても楽になりました」
「えっ?それはどういうことなの?」
「はい、二日前に昔彼と初めて出逢った民宿になっていた新潟県のお寺に行って来たんです。自分の過去を清算するつもりでね。そうしたら、私宛に彼からの手紙を預かっていると住職さんが仰って・・・その文面を見て、気持ちがぐらついたの。あの世で添いたいって、今でも好きだって、書いてあったの。気が動転して・・・30年間も閉じ込めてきた想いが爆発して、自分を止められなくなったの。昔の事だけど宿帳に書かれてあった彼の電話番号と住所を聞いて帰ってきたんです。今日はその彼に電話をしようと決めていたのですが、勇気が出ずにタイミングもなくて、迷っていた矢先に仁美さんとお会いして、こうしてお話できて自分の気持ちがはっきりしました。感謝しているんです」
「そんなことになっていたのね。人って解らないわよね。あなたも私も人に言えないような苦しみを抱えていたのに、こうして打ち溶け合えるなんて・・・良かったらお友達になって戴けませんか?これをご縁に」
「もちろん、私も望むところです。携帯のメルアドと番号を交換しましょう・・・あれ?同じ機種ですね!これも偶然ですか・・・」
「ほんと!やはりご縁があったんですね」
夕方近くになって仁美は病院へ戻って行った。いよいよ有紀は自宅に戻って明雄に電話をかける瞬間が迫ってきていた。受話器を手にする。番号をプッシュする。呼び出し音が聞こえる。
「お掛けになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上お掛け直し下さい」
そのアナウンスに、「そうよね、32年だもの・・・無理よね」自分にそう言い聞かせて、零れ落ちる涙を拭おうともしなかった。
これで私の青春が終わった・・・
30年間思い続けてきたあの人へのすべてが断ち切れる・・・
哀しみは深く、心はぼろぼろだけど、生きてゆかなければいけない。両親も居ない。弟たちはそれぞれ家庭を持ってお嫁さんと子供たちに恵まれて生活をしている。
受話器を置いた手が震える。言い様のない淋しさが全身を包みだした。予想していたこととはいえ、ノーを突きつけられたようなショックを覚えた。
「明雄さんは私に逢いたくないの?この世では逢ってはいけないって勝手に決めないでよ!一人でいるのなら、私のことを好きって想っているのなら、逢えば良いじゃないの!違う?明雄さん、あなたはどこにいるの・・・何故私たちは逢えないの・・・教えて、誰でもいいから、何でもするから、逢えればそれでいいのよ・・・それで・・・」
独り言のように呟いて気持ちを吐露した。仁美の悲しさを思えば、自分なんて身勝手な悲しみに思える。でも構わない、誰に何を言われてもいい。
有紀は明雄への思いを断ち切ることが、簡単に出来ることではないことぐらい知っている。これからどうするのか、思いつかないまま、時間は過ぎて行く。
夜の帳が下りて周りの家に明かりが点り、夕飯の支度を始めようとしたとき、携帯メールが届いた。仁美からだった。
「有紀さん、裕美が目を覚ましました。元気に話が出来るように戻り安心しています。お気遣い感謝します。またメールします、とりあえずはご報告まで」
「良かった・・・仁美さん、本当に良かった・・・」そう返信して、涙がまた出てきた。最愛の娘の笑顔を見て仁美はかけがえの無いものを失わなくて済んだ。自分のことのように胸が熱くなってしまったのだ。
考えていても始まらない。今夜は眠ろう。自分が何をしたいのか、どうしたいのか、ゆっくりと考えてから行動しても遅くはない。有紀の胸に去来する明雄の過去と今。30年間待ち続けて明雄の本当の想いを知った。今から30年間待って明雄に出逢えても辛い。何とか早く探し出して逢いたい、せめて声だけでも聴きたい。
夢に出てくる明雄ではなく、耳で聴けて、手で触れて、確かめられる明雄に逢いたい。そのために遣り残す事が無いようにしたい。ゆっくりと睡眠をとって頭を冷静に働かせないとうつになってしまう。そうなったらすべてが終わる。
退院したときにもし眠れなかったら服用するようにと貰っていた睡眠導入剤の残りがあった。飲むことは無いだろうと思っていたが、昨日も良く眠れなかったしそろそろ限界に近い感じがするから、今日は飲もうと薬箱から取り出して食事の後で飲んだ。ピンク色の小さな錠剤は確実に眠気を催し4〜5時間作用する。健康なものが飲んだらそれ以上の効果が出る。習慣性があるので余程でなければこのタイプは飲んではいけない。
ベッドに入って程なく眠気が襲ってきた。旅の疲れも残っていたのだろうか、確実に熟睡状態に有紀はなっていた。夢を見る事もなく、疲れた身体を癒すように次の朝まで目覚める事はなかった。心地よい朝を迎えて、体の芯からすっきりとした気分を感じることが出来ていた。熱いシャワーを浴びて、明るいバスルームで写った自分の身体を見た。
「気にしていなかったけど、ちょっと緩んできたわ。こんなんじゃ、明雄さんに見せられない。何とかしなきゃ・・・」逢えると決まっている訳じゃなかったが、有紀は自分の身体を昔のように戻さないといけないと思いついた。新しい仕事が見つかるまでの期間に身体を鍛えよう、まだまだ頑張れば元に戻ると自分に言い聞かせて、スポーツジムの会員になった。散歩をして有酸素運動をし、ジムで集中的にトレーニングをして身体を絞る。今の有紀には一生懸命になれることが欲しかったかのように夢中になっていた。
仁美の娘の事件があってから一月ほどが過ぎた。午前中の散歩から戻ってきた有紀の部屋にチャイムが鳴った。
「はい、どなたでしょうか?」
「有紀さん!仁美です。今戻りました」
ドアーを開けると目の前に仁美は立っていた。少し後ろに遠慮がちに娘の裕美が立っている。
作品名:「忘れられない」 第二章 すれ違い 作家名:てっしゅう