「哀の川」 第三章 クリスマスナイト
「僕もだよ、麻子」
唇を軽く合わせた。直樹が運転席に座る。麻子は助手席から直樹の右手を握っている。
「どこへ行こうか?どこも混んでいそうだね」
「そうね、浅草寺に行こう!どうせ混んでるんだったら」
「いいね、そうしよう。じゃあ、銀座線のどこかで車置いて地下鉄で行こう」
「じゃ、わたしの実家に置いてこよう。渋谷駅で待ってて」
直樹は麻子が車を実家において歩いて来るのを待っていた。いつものような混雑を見せない渋谷駅のハチ公前、腰掛けて時間をつぶしていると、「やあ、おめでとう、斉藤君!」と声をかけられた。驚いて振り返り顔を見た。
「社長!それに奥様!ビックリしました。おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」頭を下げた。
「どうしたの?斉藤君、誰かと待ち合わせ?」
「あっ・・・はい・・・そうですが」
と、話している社長夫婦の後ろ側に麻子の顔を見つけた。麻子は手を振ってきた。直樹もそれに答えた。
「あら、斉藤君!彼女じゃないの・・・えっ!素敵な人!ふ〜ん、やるわね」
「奥様、茶化さないで下さい。紹介します。大西さんです。こちらは勤め先の社長ご夫妻なんだ」
「初めまして、大西麻子といいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お話してお邪魔でしたわね。加藤といいます。私は妻の好子です。覚えておいて下さいね」
「はい」
社長夫婦は軽く会釈をして、好子は手を振りながら二人で駅に入っていった。
「ビックリしたわね、直樹。私で大丈夫だったのかしら・・・本当のことを知るときっと社長さんは反対されるわよね」
「何言ってるの!知られるわけないじゃない。そんな事話さないし、たとえ聞かれても、話さないよ」
「そうね、その方がいいよね。さあ行きましょう!」
「浅草に着いたらまずは腹ごしらえだなあ。もんじゃへ行くか?」
「うん、賛成!久しぶりに食べたいわ」
駅に入るとすぐに電車が来た。始発だから座れる。仲良く隣に座って手を繋いでいた。周りから見れば恋人同士か、夫婦に見える。麻子はボディコンではなく、ジーンズにダウンジャケット、直樹もジーンズに革ジャン。そしてそれぞれの指にはクリスマスに直樹が買ったペアーのハート型リング。絵に書いたような幸せなアベックにしか見えなかった。
終点浅草までお互いの年末年始の話しをしていた。直樹は実家の母が少し身体を悪くして今までのように上手く歩けなくなっていたことや、妹が多分今年結婚するであろう事を話した。麻子は、直樹と逢ったクリスマスの翌日、夫が香港から戻ってきて、いよいよ戦争になるという情報を聞かされたことを話した。お金を動かして稼いでいる人間にとって情報は命である。政府関係者や投資家、軍事関係者などあらゆる人脈が複雑に絡み合って情報が交錯する。真実を見極めるには、経験とそれ以上に動物的な勘が要求されるらしい。
夫功一郎の勘は、戦争だった。そしてその後の暴落を見通していたのだ。鋭いといわざるを得ない。直樹には決して存在しない能力を備えていた。直樹には麻子を、いや女性を惹きつける魅力があった。母性本能を刺激する幼稚さと素直さが混在していて、特に大人の女性には魅力に感じる部分をうまれ持って備えていた。
電車は浅草に着いた。ホームは渋谷とは違い人が多かった。着物姿やスーツ姿の男女が多く、正月なんだと感じさせた。浅草寺へと続く仲見世通りは混雑していた。花やしきの裏手にあるもんじゃの店に行く。時間が昼を少し過ぎていたので、少し待っただけで中に入れた。店の中は相変わらず有名人のサインと色紙、写真が飾られていた。ここのもんじゃは量が多い。二人とも満腹になって外に出た。
「美味しかったねえ、久しぶりに食べたよ」
「そうね、おなかがいっぱいになっちゃった。少し歩かなきゃね。それとも遊園地に行く?直樹」
「花やしきか・・・入ったことがないなあ。子供連ればかりだから恥ずかしくない?」
「そうね、大人が楽しめるものってないかも・・・」
「お参りに行こうか?」
「そうね、そうしましょう。手を繋いで直樹」
差し出した麻子の手をしっかりと握った、いや繋いだ。指を絡ませ強く握った。麻子は乙女のように気持ちがウキウキとしていた。年下の直樹がこの頃たくましく感じるようになってきた。昔のように甘えないからだ。自分に対してしっかりとしなきゃと言う自覚が出てきたのだろう。それは麻子との付き合いで得られた成長でもある。何より麻子をいつかは妻にしたいと思う以上、男としてたくましく成長しないといけなかったのである。
初詣を済ませ、おみくじを引いた。直樹は吉、麻子は中吉、まずまずだ。当たる事などないおみくじだが、いい事だけは信じるのが慣わしだ。それぞれの財布に初めてのおみくじを仕舞って記念にしようと話した。浅草駅までの帰り道、麻子は直樹の肩に持たれかかるようにして、呟いた。
「今日は帰りたくない。直樹と一緒にいたい。純一は姉と母に頼んであるから心配ないの」
「麻子・・・ボクはそうしたいよ。好きな人とずっと一緒に居たいよ。でも、実家を空ける事をしたら、お母さんや裕子さんが本当に心配するよ。何より純一君が悲しまないか?」
「直樹!大人になったわね、そんなこと言えるなんて・・・私の方が駄々こねて子供みたい。でも、今日は帰らない!そう決めて出てきたの」
「仕方のない人だなあ・・・純一君にだけはうそを吐いてもいいから、電話してあげてよ、帰れないって。母親だから声を聞かせてあげればきっと安心するよ」
「うん、そうする。ありがとう、直樹。好きよ、あなたが好き!」
浅草寺の駅で麻子は今夜のホテルを予約した。時間があるので銀座でぶらぶらしてから行こうとなった。今日から営業を始めているお店が多かった。直樹は具合が悪くなった時計を買い換えたいとずっと思っていた。目についた松屋に入った。
「直樹、何か欲しいものある?」
「去年から時計の調子が悪くて、換えたいなあって考えてはいたけど、気に入ったものが安ければ買ってもいいかなあ」
「そうなの、じゃあ見に行きましょうよ!」
一階にある時計の売り場に入った。直樹は今まで腕につけていたのは、成人式に母親に買ってもらったオーソドックスなものだったが、シンプルなデザインと薄型なのが気に入っていた。
「薄くてシンプルなのがいいなあ・・・」
売り場を見て探した。
「ねえ、これなんかいいデザインじゃない?」
「セイコーか・・・ん?145000円は高くないか・・・予算オーバーだよ」
「私が買ってあげるから、気に入ったのなら見せてもらおうよ」
「ダメだよ、甘えちゃいけないよ」
「もうすぐ誕生日でしょ?お祝い兼ねて、そうさせて」
二人の会話を聞いていた店員が頃合を見計らって、麻子が見つけたモデルをテーブルの上に出してきた。「どうぞご覧になってください」
直樹は麻子の顔を見て、そして時計を手にとって眺めた。シルバーに輝くそれはしっかりとした造りの高級品といった感じを受けた。腕につけてみた。
「素敵じゃない!似合ってるわよ」
「お似合いでらっしゃいますよ、ご主人様」
作品名:「哀の川」 第三章 クリスマスナイト 作家名:てっしゅう