ラクガキ 2
そこでは文字盤の裏側であることを強調するかのように、ただ正確に時を刻む音が漏れ出していた。
祐綺はそっと屋上の縁に腰掛け、誰かが来るのを待った。
胸ポケットには小さなノートと鉛筆が忍ばせてある。
ふと、屋上の床面に偵察用の蜂を配備することを思いついたが、一面の人工芝がそれを阻んでいる。
まあいいや、死んだらその時だ。
諦めとともに少年は大きなため息を空に放った。
昨日から一転、梅雨間の青空とでもいうのか、雲ひとつない晴天が広がっている。
こうして居るとまるで昨日の事が何かの間違いであるように思えた。
「本当に来るんだろうな…?まさか冗談、じゃないよな…」
一人待つ少年を嘲笑うかの如く間の抜けた烏の鳴き声が響いた。
爽やかな夏風とはいえ、長く浴びていると体温は徐々に奪われる。
からかわれたかどうかはともかくとして一度トイレに行って体勢を立て直そうかと考え始めた頃、
そっと彼を呼ぶ声がした。
「…祐綺君、でしょうか?待たせてすみません。」
声の主は時計塔から現れた小柄な少女だった。
艶やかな黒髪はサイドで2つにそっと纏められており、飾り気のない顔立ちをしている。
タイの色からおそらく同じ1年生だとわかったが、祐綺には見覚えがなかった。
「あ……はい。」
「それでは立ち話も何ですから、…中にどうぞ。」
少女は時計塔の入口をいったん閉め、厳かに進路を譲る。
どうやら、祐綺が自分で扉を開ける必要があるようだ。
なんとなく昨日の帰宅時のことが思い出され、祐綺は行動するのが躊躇われた。
「あの、心配は要りません。私も一緒に入りますし、
信太先生は柿崎さんにあの後こってり絞られて落ち込んでますから、
昨日みたいなハイテンションにはならないと思います。」
じゃあやっぱり居るんじゃないか。
あのむせかえる熱を帯びた演説を繰り広げた教師と会いたくないばかりに5時間目をサボったというのについてない。
しかし、こうして待ち合わせに応じたからには後には引けない。
悩んでいるうちに、少女は彼の左袖を摘むようにささやかに掴んだ。
「では、行きましょう。」
少年は深い深呼吸と共に決心すると、ひと思いにドアノブを握った。
――――またあの感覚だ。
夢の中で底なし沼に片足を突っ込んだような……
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そう思う間に、二人はレンガの敷かれた仄暗い空間に降り立っていた。
今度は地面に縛り付けられることもなく、心なしか空気も軽い。
他にもこの間と違う事はいくつかあった。
一つは、木製の大きな円卓が中央に設けられていたこと。
もう一つは、信太と共に昨日の二人組が居たことであった。
まず声をかけたのは生徒会役員のほうで、ポットから丁寧に人数分の紅茶を入れながら、丁寧に着席を促した。
「お久しぶりですね。手早く済ませますので、どうぞお掛けください。」
信太はと言えば、懲りたとは思えないほど目を輝かせてこちらを見ている。
「来てくれてありがと。自転車の乗り心地はどう?」
「あ…はい。」
微笑む上級生に生返事をしながら、祐綺は目の前の席に恐る恐る着いた。
目の前の紅茶は温かな湯気を立て、そっと祐綺の視界を和らげた。
「さて、昨日は責め立ててしまったようですね。申し訳ありません。」
全員分のお茶を入れ終わった役員は、まったく悪びれない態度で頭を下げた。
「信太ちゃん、あんたもだから。」
「う、いや、ああいう方が少年の心に響くのが定石であってだな…」
黒髪の少女にじとりと睨まれ、信太は忌々しく口を閉じた。
「まあ、教師が生徒に頭を下げると言うのもなんですから、不問といたしましょう。
庄司くんも、それでよろしいですね?」
たぶんNOと言わせる気なんてさらさらないんだろうなぁと思いながら、少年はしぶしぶ頷いた。
「では、自己紹介から始めましょう。
私は生徒会書記を務めております、妹尾麻衣と申します。」
「2年B組無部無所属、柿崎籐子。よろしくね。」
「あたしは紫藤ひかりです。その、…文芸部です。」
最後の一人が席に座ると、異空間の静けさがほんの少しだけ耳についた。
全員が生徒会と思いきや、そうでもないことに祐綺は驚いた。
「じゃ、次は少年だね。」
「え?…ああ、はい。」
皆自分の事を知っているならわざわざ言う必要もないと思うけど…
釈然としないながらも、祐綺は簡単に自己紹介を済ませた。
「よし、皆済んだようだな。」
いかにも教師らしく信太が締めくくった。
「さて、庄司君。さっそくだが、君の能力について確認させてもらおう。」
「はあ…」
確認と言っても、こんな大勢の前で見せるような派手なチカラというわけでもない。
祐綺には、なんとなく発表するのが躊躇われた。
「どうした?特に危険な能力と言う訳でもないんだろう?」
「信太ちゃん、うるさい。」
にべもなく籐子に一蹴され、信太は今度こそ項垂れた。
「ごめんね少年。それじゃ、私たちが先に能力を見せるから、その後に見せてくれる?」
「…そうですね。それでは籐子からどうぞ。」
思いつきとしか考えられない急な提案に麻衣は少しむくれているようだった。
しぶしぶといった具合に、籐子は椅子から立ち上がった。
「じゃあいくよー、ふんっ!」
およそ女子高生とは思われない力みとともに、籐子の腕はメキメキと音を立てて膨らみ、そして堅く引き締まった。
「…どうかな?」
祐綺はただ、驚くしかなかった。
もしもっと別な能力なら、手品か何かだと笑い飛ばすこともできたかもしれない。
しかし、そんな風に斜めに構える間もなく、彼女の両腕は数十年丹精に鍛え上げられたかのような剛腕へと変化していた。
「すごい…」
「これが私の能力。強そうっしょ?」
「ふん。」
信太は先ほどの仕返しのつもりなのか、無愛想な面持ちで息を吐いた。
そんな大人げない教師を横目に、生徒会書記が口を開く。
「信太先生についてはもう見せておりますから、最後は私になるのでしょうね。」
そして椅子から立ち上がると、先ほどまで紅茶を入れていたカップに手を伸ばした。
カップには金の細い縁取りとともに、赤い薔薇の花が描かれている。
それを高く高く持ち上げ、そっと机に目をやった。
「…いきます。」
ひゅっと短く息を吸い込み、麻衣はカップを机に投げつけた。
「!」
破片を避けるため祐綺は両腕で顔と首を守り、後ろに引いた。
椅子は重力に耐えきれず、ばたりと倒れこむ。
少年は強かに背中を石床に打ちつけ、しばし立ち上がれなかった。
「…あらら、大丈夫?」
「まったく、情けないですね。瞬間を見ていただけないと困るのですが。」
促されるまま、祐綺はそっと眼を開けた。
机の上には破片などなく、籐子はいつの間にか元の姿に戻り、祐綺の下敷きになった椅子に手を掛けていた。
少年はあわてて立ち上がり、椅子を戻して再びテーブルについた。
「あの…カップは?」
「ちゃんとありますよ、ここに。」
そういうと、麻衣は机の中央を指差した。
そこにはカップなどなく、見覚えのある花が机に横たわったいる。
「この、花がカップになったんですか?」
「惜しいね。この薔薇は確かにカップの絵さ。」
信太の勿体ぶったセリフでますます訳が分からなくなり、祐綺は怪訝な表情を浮かべた。