ラクガキ 2
深く深呼吸をして、深く考えすぎた自分を諌める。
今はまだそこまで思いつめて居ないはずだ。大丈夫、行こう。
上着を着て鍵束を取り、下足箱の奥から安全靴を取り出す。
携帯で再度連絡を取りつつ、隣室に響かぬようにそっと鍵を閉めた。
陽一が外に出ると、階段下の電灯に見知った顔が照らされていた。
「よお、主人公。今日は非番か?」
「……誰が主人公だ。」
隠れる訳でもなく、かの人物は湿り切ったアスファルトを踏みにじるかのように佇んでいる。
彼は夜空よりも黒く塗られたバールを、あたかも武器のように担いでいた。
この忙しいのに、面倒な奴がやってきた。
陽一にとってはただそれだけにすぎない遭遇である。
「どっちでもいいじゃん、毎度毎度『聖地』の周辺警備お疲れさん。……今、暇あ?」
「暇じゃねえよ屑。帰れ。」
だらしなくにやつくそっけない返事をして、
陽一はポケットに突っ込まれた車の鍵を探りながら彼の前を過ぎる。
刹那、硬化した左腕は羽のように緩やかにバールを弾いた。
すぐさま状態を立て直し、今度は刃と刃で噛み合うように打撃を受ける。
「そう言わずさぁ、遊んでってよ。」
「…ここは非戦闘区域だ。もし吹っ掛ける気なら収容されるのはそっちじゃないのか?」
ちりん、と金属が掠れ離れる音。
同時に飛びのき、人が動いた分だけ風が生まれる。
「お前が“本戦”から抜ける時、風の噂に親戚を預かったからとは聞いてたけどさぁ……
セカンドだったとはねぇ、中々面白いことになってるじゃん?」
「……なに、企んでやがる。」
その言葉を待っていたかのように、彼は輝かんばかりの邪悪な笑顔を向けた。
「欲しいなぁって、ね。」
鉄槌と化した陽一の腕は即座に彼の体を吹き飛ばす。
バールは飛びあがり、マンションの屋上の手すりを始点に軽やかに回転した。
そう、祐綺はまだ知らぬ戦い。よって戦果を記すのみである。
サブローこと『挑戦者326号』、条件付き不戦敗を提案。
陽一、条件付き不戦勝。
不戦条件については、日付が変わる前にガーディアン本部に提示、承認された。
◆ ◇ ◆ ◇
「さて、玄関口まで送って行った方がいいかしら?」
「いえ、…ここまでで…」
黙って出て行った都合、出来れば静かに帰りたかった。
日付は変わってしまったものの、『ちょっとコンビニ行ってた』
で理由がつくならそれに越したことはない。
それに知らないおばさんに助けてもらったなんて、カッコつかないし。
「わかった。それじゃまたね。」
「え……」
また、なんて機会はあるのか。
その答えを問い詰める間もなく、真っ赤なセダンは走り去っていた。
「よお、お帰り。」
「……ただいま。」
陽一は何でもないといった風体で、不本意そうな表情を浮かべた祐綺を迎えた。
「遅かったな、コンビニでも行ってたのか?」
「……うん。」
ミニノートの中に佇んでいるジャックは空気を読んでか寝ているのか、
何も発しはしなかった。
明らかに『ちょっとそこまで行ってきた』では済まないリュックを学習机の前にどさりと置き、
ツッコまれないように、そっと荷物を解く。
陽ちゃんは分かった上で何も聞かないでいてくれるんだろうなと思ったのは、
『米、戻しておけよ』と言ったのを聞いた時だった。
そして、タッパにみっちり詰めた白米を丁寧に戻しながら、祐綺はふと思い出したことがあった。
「陽ちゃん、信太の言ったことで気になることがあるんだけど…」
「信太?ああ、待ち伏せしてたっていう先生か。」
「自分の描いた動く絵は、自我を持ってるのか気にならないのかって言ってたんだ。」
それを聞いて陽一は、眉が繋がるのではないかというほどに困惑した表情を見せた。
「なんか無茶苦茶分かりづらい言い方だな……。
つまり、ジャックたちがしゃべるのは祐綺が無意識にしゃべらせてるからかもしれない、
ってことか?」
少年は杓文字を水洗いしていたが、陽一の解説にうなだれた。
濡れた手をTシャツの腹で拭き、ジーンズのポケットにそっと触れる。
たしかに、ジャックたちとケンカしたことはあっても意地悪をされたことはなかった。
鉛筆書きの彼らは消しゴムで消されれば消えてしまうから、
仕方なく言う事を聞いてくれているのだと思っていた。
気に食わないこともあるけれど、仕方ないから友達でいよう、そう思われているのだろうと。
――――――――だけど。
もし自分が知らないうちに彼らを操っているのだとしたら。
それは友達とは到底呼べない一人相撲だ。
あいつらがそれを調べる方法を持っているなら、
行ってみない手はないのかもしれない、けど………
「怖いか?」
突然本音を掴みだされたようで、祐綺はぎょっとした。
「……うん。」
恐怖と不可解によって縮こまっていた心が、ほぐれていくのを感じる。
それを象徴するように、彼の本音は口をついて出てきた。
「だって、放っておいてくれれば、俺、何もしないのに……
別に、皆が友達でいてくれることで、迷惑なんかかけてないのに、
なんでそうやって、あいつら、触ってくるんだよ……」
陽一は否定するでもなく、ただ傍で彼が絞り出す声を聞いている。
「俺、迷惑なんて掛けてないよ。誰にも酷いことしてないよ?
なのに、余計なんだよ。
……俺は今のままでっ、十分幸せでっ……」
「いいよ俺なんか、特別なんかじゃ無くていいんだよ。
世間一般のなかに、注目なんかされないでさ……」
「守ってもらわなくていいんだよ。覚悟なんかもう出来てるよ。
俺みたいに変なやつはさ、駆除されても仕方ないんだからさぁ……」
いつの間にか祐綺は泣いていた。
そして陽一は、そのある種の慟哭を、拳を捩じり潰しながら聴いていた。
その手の内側に、血を滲ませながら。
◇ ◆ ◇ ◆
翌朝。
「おはよー、少年。」
重い足取りで家を出た祐綺の眼下に、昨日壊れたはずの自転車が見えた。
その傍らには、昨日の騒ぎの際に会った刀使いが立っている。
「あの、これ……」
「本当は信太ちゃんに車で送らせようと思ったんだけどさー、
昨日ちょっと怖がらせちゃったみたいだから、お詫びにあげる。」
鍵に付いているストラップを見るにあの残骸を修復したのかと思ったが、
傷どころか、フレームには泥一つついていない。
どうやら新品のようだ。
「ストラップは回収しておいたんだけど、
他は直すより新しいの買った方が早いって話だったからさ。この車種であってる?」
「…はあ。」
正直、世界に一つの自転車というわけでもない。
車種どころか、ストラップすら特に愛着を持っているわけではないのだが…。
何も言わないという事は不満はないという事だと判断したのか、
少女は長い髪を翻し自身の自転車を発進させる。
「それじゃまたね。」
「あ、あの…」
「ん?」
祐綺は不安ながらも、勇気をどうにか絞り出した。
「昨日の話、聞きたいんですけど、どうしたら……」
「放課後17時、時計塔で。」
16時50分。祐綺は、言われた通りに部活棟屋上、通称「時計塔」の前にいた。
部活棟の屋上にある小さな時計室。