ラクガキ 2
少年は否定も肯定もしなかったが、その顔をちらりと見て同居人は肯定と受け取ることに決めたようだ。
とっくにテーブルに置かれた2人分の箸とともに、夕飯のセットは厳かに片づけられた。
◆ ◇ ◆ ◇
いつの間にか陽一は皿を洗い終え、シャワーを浴びに行ったようだった。
家族会議を急かさず風呂を優先するのはきっと、
心の準備が出来ないままついに非日常に巻き込まれた祐綺に対する、彼なりの気遣いなのだろう。
昔から陽ちゃんはそうだな、と祐綺は笑みをこぼした。
決して恩着せがましくならないように、フォローを入れる。
気付いたら、あちこちに彼の気遣いや根回しが済ませてある。
それはまだ高校一年生の祐綺にとっては魔法のようなものに感じられ、ゆえに少年は彼をひそかに尊敬していた。
でも――――
「ジャック、ポケットに入ってて。」
「どうした?特に不穏な気配はないと思うけど。」
祐綺は何も言わず、くたびれきった部屋着のジーンズの尻ポケットにミニノートを突っ込んだ。
確かに逃げても無駄かもしれない。
だけど、俺のせいで陽ちゃんの生活まで変わってしまうとしたら。
こんな俺を住まわせてくれた陽ちゃんに危害が加わるかもしれないとしたら…
―――たえられない。
祐綺は自分の勉強机の棚から貯金箱をとった。
スポーツカーがたくさん書かれた古びたもので、ほとんどが陽一のお下がりであるこの家の中では数少ない、
始めから祐綺個人の持ち物だった。
上蓋を固定しているセロテープを外し、べとつく手で中を確認する。
ほとんどが10円や1円で埋め尽くされていたが、へそくりのつもりで入れていた千円札が3枚あった。
ため息を噛み殺し食卓にもどる。財布の残金は1600円ほどだった。
合わせたとしても少年一人が家出するには圧倒的に少ない。
だが、祐綺はリュックにお菓子を詰め、スケッチブックや筆記用具をまとめる。
思いつめた彼には、4千円で行ける所まで行くという選択肢しか浮かばなかった。
炊飯器に残った米をかき集め、タッパに詰める。
急がなければ、陽ちゃんが風呂からあがってくる。
今だ。
今しかない。
今出ていかなければきっと逃げられない。
だれにも迷惑はかけられない。
そうして、祐綺は重いリュックを背負い、雨上がりの夜に飛び出した。
闘いから逃げるために。
出来るだけ遠くを目指して。
水たまりに足を突っ込み靴下の中まで湿り切っても、
赤信号に気付かず飛び出し急停車したドライバーに叱られても、
ひたすらに遠くを目指し続けた。
ただ、遠くへ。
◆ ◇ ◆ ◇
「君、こんな時間になにしてるの?」
そしてその逃避行はあっけないと言えばあっけない中断を余儀なくされた。
自宅を起点として高校と正反対の方向に約8kmの国道沿い。
自転車も車もない少年の夜逃げはやはり無謀であった。
「あ…えっと…」
呼びとめられてまごまごしていると、湿気で背中がじっとりと重く感じられる。
どうしようもない。そんな絶望が彼の胸を包んでいた。
もちろん家出慣れしていない少年にうまい言い訳など思いつくはずもなく、
質問攻めの末あわや補導されるか、といったところに助けは来た。
「ゆ~うちゃ~~ん!よかった、こんなとこにいたのね!」
「………え?」
走ってきたのは、40代半ばの女性であった。
サンダル履きで薄着にアンバランスなベンチコートを着込んでいる。
「まったく祐ちゃんたら、どうして飛び出したりしたの!
お父さんもお兄ちゃんも里佳も心配してるわよっ……」
「ああ、お母さんでしたか。じゃ、念のためにこちらにご住所お願いできますか?」
かの警官たちは律儀にも連絡先をひかえる。
女性はその間も、ペンを貰う度用紙に記入する度にただひたすらに頭を下げていた。
「本当にお手数をおかけしました、すみませんお巡りさんもお忙しいのに…」
「いえいえ、お構いなく。それじゃお気をつけてお帰りください。」
そんなやり取りをして、警官たちはパトカーに乗り込んで夜の闇に消えていった。
祐綺と彼女は、ついさっきまで「親子」を演じていたとは思えないほどによそよそしく、
遠ざかるテールランプをぼんやりと見つめていた。
「……さて、と。祐ちゃん、…で合ってるのよね?」
きた。
「………。」
「まったく…とって食いやしないのに、どうして逃げたりするの!」
「…え?」
おかしいな、これは怒られる場面なのか。
「確かにちょっと脅かしすぎちゃったわ。でもね、男の子なんだから逃げちゃだめよぉ!」
「はあ。」
突然の迫力のないお叱りに祐綺はすっかり毒気を抜かれてしまった。
学校でこの女史を見たことはないが、おおかたあの教師の仲間か何かなのだろう。
彼女の眉毛と目じりは全力でしょうがないなぁ、困った子ねぇと叫んでいるようで、
より一層人の良さを演出していた。
「しょうがないわね、今車で送ってあげるからおいでなさいな。」
「……」
確かに、さっきのようにまた補導されるかもしれないことを考えると、
家を出るのは休日の朝に出直した方がいいのかもしれない。
忌々しくも彼はそう思い直し、路肩に停められた赤い乗用車に乗り込んだ。
「さ、シートベルト締めてね。忘れ物ない?」
女性はいまだ名を名乗らなかったが、そのやわらかい物腰はまるで母親のようだった。
「…ありがとう、ございます。」
言ったものの急に恥ずかしくなって、祐綺は頭を高速でかきむしり窓へ顔を向けた。
聞こえるのがやっとのつぶやきだったが、彼女はそれを聞いてそっとほほ笑む。
「じゃ、出発進行!」
車内にはどこかで嗅いだ覚えのある花の香りが漂い、
カーラジオからは品のよい音楽が途切れることなく流れている。
彼女に聞きたいことは山ほどあったはずだが、それ以上に祐綺は疲れていた。
そして、今日初めて会ったはずの彼女を信頼したかのように、彼は静かな寝息を立てた。
だから彼はまだ知らない。
自宅で起きた、とある戦いを。
◆ ◇ ◆ ◇
風呂から上がった陽一は、ある種の諦めを持ってその変化を確認した。
「祐綺の野郎、やーっぱりやりやがった…」
外を見やれば、雨はすっかり上がっている。
先ほどの祐綺の話からすれば彼の自転車はスクラップとなって高校の駐輪場に転がって居るはずだ。
「って事は…」
歩いて行ったのか。陽一はその一言を飲み込むと、充電器に待機している携帯電話を取った。
静まり返った部屋にカチカチとせわしなく操作音が響く。
肩で不器用に携帯をはさみ、報告と連絡をしながら炊飯器を開けた。
やはり、一粒もない。大方歩けるところまで歩こうと兵糧を詰め込んで行ったのだろう。
ただの高校生が歩いて行ける距離なんてたかが知れてるだろうに……俺に迷惑をかけないように、ってか。
陽一はため息をかき消すように、小さく舌打ちをした。
ああ、あいつはやっぱり変わらない。こんなことならいっそ、何もかも教えてやった方が良かったのか?
いや、祐綺は間違いなく逃げるだろう。
それもきっと逃避行なんて生ぬるい解決でなく、もっと残酷な形で俺の苦労に報いるのだ。
「あんの、馬鹿…!!」
ミニノートの湿気がまだかすかに残る食卓は、力ない音を立てた。