ラクガキ 2
◆ ◇ ◆ ◇
「…ただいま。」
「…」
同居人である陽一が帰るまで、祐綺はそこで座りつくしていたようだった。
「…取り合えず、家、入れ。」
陽一は小さくため息をつくと、家の鍵を開け玄関を広く開け放ち、
無気力に座り込む祐綺を玄関の縁に座らせた。
「Yシャツ、洗って縫ってやるからさっさと脱げ」
こくり、と少年は頷いた。
震える指は思うように動かず、まるで感覚が麻痺したかのようだった。
「…しょうがねーなぁ…。服着たままでいいから、シャワーであったまってこい!」
「いやいやいや、俺たちポケットに入れたままぁ?!」
ジャックたちが当然の権利を主張すると、祐綺は胸ポケットをさすった。
「ああ、悪い悪い。祐綺、こいつら干しといたほうがいいか?」
首をほんの少し動かしただけだったが、陽一にはそれが肯定だと分かった。
さっとポケットからノートを取り出すと、無造作に居間のテーブルの上にそれをあげた。
「よーし、んじゃ風呂場に運ぶか。」
そう言っておもむろに腕まくりをし、祐綺を抱えあげると、
陽一は風呂場のスノコに彼を座らせシャワーの水温を調節し始めた。
「ほれとっとと脱ぐ!ポケットに財布とか入れっぱなしになってねーだろうな?」
「…」
祐綺はごそごそと尻ポケットから酷くくたびれた革の塊を引っ張り出し、風呂場の外に投げた。
ばさり、という音に反応するかのように、シャワーは勢いよく適温の熱湯を噴き出した。
「おし。…じゃ、俺はチビから事情を聞くから、お前はゆっくりしてろ。」
そう言って、同居人は祐綺の足を跨ぎ越えると、優しく風呂場の戸を閉めた。
温かい雨が祐綺の体に沁みこむうちに、かたたかたと、奇妙な音が響く。
ああ、そうか、と祐綺は気付いた。
怪奇現象でも何でもない、自分の歯が鳴っているのだ。
ずっと外にいたから、体が冷え切ってしまっていたんだ…
そして、何よりも、あの異常から帰ってこれたことに。
ため息の拍子に彼は温水をのどに引っかける。
だがそれは命の危険などない、ありふれたアクシデントだった。
二人暮らしのささやかなユニットバスに、控えめなくしゃみが響いた。
◆ ◇ ◆ ◇
「おかえり。体、あったまった?」
「…うん。」
陽一はいつのまにか夕飯の仕度を済ませていた。
豚肉の生姜焼きとからからになったポテトがくたびれた様子で食卓に並んでいる。
その座卓の隅には、遠慮がちにジャックの住むノートと財布が置かれていた。
「…またポテト買って来たの?」
「まあな。俺が揚げたやつだから、味は保証する。」
全然答えになってないなと内心ツッコミを入れながら、
祐綺はいつもの側――テレビから向かって右に座った。
陽一は自宅から15分ほどの距離にあるハンバーガーショップで働いている。
駅の構内にあるため、忙しい時期になると祐綺はほぼ一人暮らしの状態となるが、
それ以外では朝から夜まで規則正しく出勤しては家事もこなし、同居人である弟分の生活と学業を支えている。
「…やっぱさ、ポテトをおかずにご飯食べるのってやっぱ変じゃない?」
「いやいや、ポテトだけなら確かにきついけど、生姜焼きあるじゃん。だからセーフだって。」
「なんだよそれ。」
「お好み焼きとご飯一緒に食べるのと同じだって。
ちゃんとしょっぱいし、育ち盛りは野菜食べなきゃだろ?だからセーフ。」
ああ、普通だ、と祐綺は安心とともに笑いをこぼした。
こうして夕飯を食べて居ると、さっきまでの出来事が夢か何かだったように思えてくる。
そう、きっとあのカーテンレールの継ぎ目に無造作に干してある制服も、
きっと単純に雨に降られて濡れてしまっただけなのだ。
「もう脱水終わったんだ。」
「とっくにな。シャツはまだ縫ってないから、明日は替えのほう着ていけよ。」
どすんと祐綺の心に鉛の塊が沈み込んだような感覚がした。
同居人は、少年の様子からその内心を悟ったようだった。
「なんでだよ!」
「何ででもだ。」
反論をしたのは、テーブルの隅におかれた貧相なミニノートだった。
「俺がちゃんと説明したろ!あいつらみんな頭おかしいんだって!
転校するなりなんなりしてとっとと逃げなきゃ、何の片棒担がされるかわかったもんじゃねーぞ!」
「ジャック、お前日本人でもねーのによくそんな言葉知ってるな…」
歯に衣着せぬ物言いに、陽一は思わずたじろいだ。
「俺はモチーフが洋風なだけで日本生まれだよ。陽一も知ってるだろ」
「まあな。だけど一応言っておこう。今日の事を洗いざらい聞かせてもらったが、分かった事は一つ。
逃げても無駄だってことだ。」
地の底まで見下ろせそうなほどに俯いていた祐綺は、はっと顔をあげた。
「なんで?あいつら、訳わかんない事ばっか言ってたけど、学校の人たちだよ?
学校行かなきゃいいんじゃないの?」
ジャックのまっすぐな問いに、陽一はおもむろに口を開いた。
「まあ、そうだけど…まず、最初にお前に仕掛けてきた奴だが、お前との接点は学校だけだ。
だから、ジャックの意見も一理ある。」
「な、なっ?!」
「お前は黙ってろ。
…次に、女の2人組。これも学校の生徒であることは間違いない。
彼女たちの言い分は保護してやるよ、というだけだったんだよな?祐綺。」
僅かにこくりと頷いたのを視認して、陽一は次の仮説に移った。
「この時点で彼女たちがしてくれる保護には2通り考えられる。
一つは不審人物に怯えずに暮らせるように、どこか別のところに移してくれるという意味。
もしかしたら軟禁することになるのかもしれないが、保護っつてんだからそうなるだろうな。
そしてもう一つは、“怯えず学校生活が送れるように”警護してくれるという意味だ。」
祐綺はここまで聞いて彼らの異常さを肌に感じた。
―――そうだ、あいつらは一人を無条件で逃した。
それによって狙われる可能性が増えてしまうのに。
さらに言えばあいつらは、
俺が狙われる可能性のある、チカラを持っている人間だという事を知っていて今まで何の警告もしていない。
ということは…どうなるんだ?
めまぐるしく疑念と疑問が渦巻き、祐綺の頭は思案についていけない速度で空回りした。
「気づいたか?たぶん、彼女たちの言う保護は後者だ。
“何事もなかったかのように今まで通り”学校に来てくれることを彼女たちは望んでるんだと思う。」
「…次は、殺されるかもしれないのに?」
自分の口から出た言葉に祐綺は戦慄した。
そうか、だから自分は逃げだしたのだ。
自分は言い知れぬエゴと静かに忍び寄る疑念の気配をかすかに感じ取っていたのだ。
「そして玄関でのやり取りだ。その信太とかいうやつの思想はさておくとして、
問題は彼女たちの仲間が家の玄関でお前を待ち構えてたという事だ。
…正直、ちょっと気持ち悪い話だよな。」
祐綺はその時のできごとを思い出し、ぎゅっと膝をつかんだ。
「祐綺、…大丈夫か?」
「…うん。ありがとう、ジャック。」
陽一はのどを鳴らして味噌汁を腹に流し込んだ。
「核心に入る前に皿洗うか。祐綺、その生姜焼き明日の弁当に入れていいか?」
「…」
「…ただいま。」
「…」
同居人である陽一が帰るまで、祐綺はそこで座りつくしていたようだった。
「…取り合えず、家、入れ。」
陽一は小さくため息をつくと、家の鍵を開け玄関を広く開け放ち、
無気力に座り込む祐綺を玄関の縁に座らせた。
「Yシャツ、洗って縫ってやるからさっさと脱げ」
こくり、と少年は頷いた。
震える指は思うように動かず、まるで感覚が麻痺したかのようだった。
「…しょうがねーなぁ…。服着たままでいいから、シャワーであったまってこい!」
「いやいやいや、俺たちポケットに入れたままぁ?!」
ジャックたちが当然の権利を主張すると、祐綺は胸ポケットをさすった。
「ああ、悪い悪い。祐綺、こいつら干しといたほうがいいか?」
首をほんの少し動かしただけだったが、陽一にはそれが肯定だと分かった。
さっとポケットからノートを取り出すと、無造作に居間のテーブルの上にそれをあげた。
「よーし、んじゃ風呂場に運ぶか。」
そう言っておもむろに腕まくりをし、祐綺を抱えあげると、
陽一は風呂場のスノコに彼を座らせシャワーの水温を調節し始めた。
「ほれとっとと脱ぐ!ポケットに財布とか入れっぱなしになってねーだろうな?」
「…」
祐綺はごそごそと尻ポケットから酷くくたびれた革の塊を引っ張り出し、風呂場の外に投げた。
ばさり、という音に反応するかのように、シャワーは勢いよく適温の熱湯を噴き出した。
「おし。…じゃ、俺はチビから事情を聞くから、お前はゆっくりしてろ。」
そう言って、同居人は祐綺の足を跨ぎ越えると、優しく風呂場の戸を閉めた。
温かい雨が祐綺の体に沁みこむうちに、かたたかたと、奇妙な音が響く。
ああ、そうか、と祐綺は気付いた。
怪奇現象でも何でもない、自分の歯が鳴っているのだ。
ずっと外にいたから、体が冷え切ってしまっていたんだ…
そして、何よりも、あの異常から帰ってこれたことに。
ため息の拍子に彼は温水をのどに引っかける。
だがそれは命の危険などない、ありふれたアクシデントだった。
二人暮らしのささやかなユニットバスに、控えめなくしゃみが響いた。
◆ ◇ ◆ ◇
「おかえり。体、あったまった?」
「…うん。」
陽一はいつのまにか夕飯の仕度を済ませていた。
豚肉の生姜焼きとからからになったポテトがくたびれた様子で食卓に並んでいる。
その座卓の隅には、遠慮がちにジャックの住むノートと財布が置かれていた。
「…またポテト買って来たの?」
「まあな。俺が揚げたやつだから、味は保証する。」
全然答えになってないなと内心ツッコミを入れながら、
祐綺はいつもの側――テレビから向かって右に座った。
陽一は自宅から15分ほどの距離にあるハンバーガーショップで働いている。
駅の構内にあるため、忙しい時期になると祐綺はほぼ一人暮らしの状態となるが、
それ以外では朝から夜まで規則正しく出勤しては家事もこなし、同居人である弟分の生活と学業を支えている。
「…やっぱさ、ポテトをおかずにご飯食べるのってやっぱ変じゃない?」
「いやいや、ポテトだけなら確かにきついけど、生姜焼きあるじゃん。だからセーフだって。」
「なんだよそれ。」
「お好み焼きとご飯一緒に食べるのと同じだって。
ちゃんとしょっぱいし、育ち盛りは野菜食べなきゃだろ?だからセーフ。」
ああ、普通だ、と祐綺は安心とともに笑いをこぼした。
こうして夕飯を食べて居ると、さっきまでの出来事が夢か何かだったように思えてくる。
そう、きっとあのカーテンレールの継ぎ目に無造作に干してある制服も、
きっと単純に雨に降られて濡れてしまっただけなのだ。
「もう脱水終わったんだ。」
「とっくにな。シャツはまだ縫ってないから、明日は替えのほう着ていけよ。」
どすんと祐綺の心に鉛の塊が沈み込んだような感覚がした。
同居人は、少年の様子からその内心を悟ったようだった。
「なんでだよ!」
「何ででもだ。」
反論をしたのは、テーブルの隅におかれた貧相なミニノートだった。
「俺がちゃんと説明したろ!あいつらみんな頭おかしいんだって!
転校するなりなんなりしてとっとと逃げなきゃ、何の片棒担がされるかわかったもんじゃねーぞ!」
「ジャック、お前日本人でもねーのによくそんな言葉知ってるな…」
歯に衣着せぬ物言いに、陽一は思わずたじろいだ。
「俺はモチーフが洋風なだけで日本生まれだよ。陽一も知ってるだろ」
「まあな。だけど一応言っておこう。今日の事を洗いざらい聞かせてもらったが、分かった事は一つ。
逃げても無駄だってことだ。」
地の底まで見下ろせそうなほどに俯いていた祐綺は、はっと顔をあげた。
「なんで?あいつら、訳わかんない事ばっか言ってたけど、学校の人たちだよ?
学校行かなきゃいいんじゃないの?」
ジャックのまっすぐな問いに、陽一はおもむろに口を開いた。
「まあ、そうだけど…まず、最初にお前に仕掛けてきた奴だが、お前との接点は学校だけだ。
だから、ジャックの意見も一理ある。」
「な、なっ?!」
「お前は黙ってろ。
…次に、女の2人組。これも学校の生徒であることは間違いない。
彼女たちの言い分は保護してやるよ、というだけだったんだよな?祐綺。」
僅かにこくりと頷いたのを視認して、陽一は次の仮説に移った。
「この時点で彼女たちがしてくれる保護には2通り考えられる。
一つは不審人物に怯えずに暮らせるように、どこか別のところに移してくれるという意味。
もしかしたら軟禁することになるのかもしれないが、保護っつてんだからそうなるだろうな。
そしてもう一つは、“怯えず学校生活が送れるように”警護してくれるという意味だ。」
祐綺はここまで聞いて彼らの異常さを肌に感じた。
―――そうだ、あいつらは一人を無条件で逃した。
それによって狙われる可能性が増えてしまうのに。
さらに言えばあいつらは、
俺が狙われる可能性のある、チカラを持っている人間だという事を知っていて今まで何の警告もしていない。
ということは…どうなるんだ?
めまぐるしく疑念と疑問が渦巻き、祐綺の頭は思案についていけない速度で空回りした。
「気づいたか?たぶん、彼女たちの言う保護は後者だ。
“何事もなかったかのように今まで通り”学校に来てくれることを彼女たちは望んでるんだと思う。」
「…次は、殺されるかもしれないのに?」
自分の口から出た言葉に祐綺は戦慄した。
そうか、だから自分は逃げだしたのだ。
自分は言い知れぬエゴと静かに忍び寄る疑念の気配をかすかに感じ取っていたのだ。
「そして玄関でのやり取りだ。その信太とかいうやつの思想はさておくとして、
問題は彼女たちの仲間が家の玄関でお前を待ち構えてたという事だ。
…正直、ちょっと気持ち悪い話だよな。」
祐綺はその時のできごとを思い出し、ぎゅっと膝をつかんだ。
「祐綺、…大丈夫か?」
「…うん。ありがとう、ジャック。」
陽一はのどを鳴らして味噌汁を腹に流し込んだ。
「核心に入る前に皿洗うか。祐綺、その生姜焼き明日の弁当に入れていいか?」
「…」