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この雨が止む頃に

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ZERO POPULATION GROWTH/望みを絶やすことなく歌おう


■ □ ■ □ ■

 深夜のうちに吹き荒れだした暴風によって、道路を覆っていた雪は一晩でどこかへと吹き飛ばされた。ほとんど地面と水平になって降り注ぐ雨粒が窓ガラスを叩く。テレビをつけると、昭和何年以来の大風だと言っていた。その時代に生まれていないので比較はできないが、それでもこの気候がクリスマスにぴったりのものではないということだけはわかる。
 そのテレビも二時間ほど前の停電で見ることができなくなった。一向に復旧の兆しは見えてこない。電力会社の人間がどれほどの義務感で仕事をしているのかはわからないが、まさか台風並の風が吹き荒れる中にまで出張してきてくれるとは到底思えなかった。雲がちぎれ、空の彼方まで一瞬で吹き流される。まだ午後一時を少し回ったぐらいだというのに、まるで夜のような暗さが街全体を覆っていた。
 家が揺れる。壁が軋んで不吉な音をたてた。雨戸を閉めて一応の対策はしているものの、ここまで風が強いとまるで意味がない。瓦でも吹き飛ばされているのだろう、さきほどから家の外壁に叩き付けられる金属音が耳障りだった。
「……ひでえな」
 巡り来る終局の猛威を思い知らされながら、拓也は重苦しい声を吐き出す。部屋の暗さに目が慣れ始めると、改めて外の状態がどんなものか気になった。かといって雨戸を開けて覗き見をするわけにもいかず、結局のところ被害の大きさは頭の中で想像するしかない。ラジオは雑音がひどすぎて聞けたものではなかった。そうでなくとも雨風の音が大きすぎる。部屋の中で会話をしようとも思っても、大声を出さなければまともに通じないほどだった。それでも午前中から比べれば少しは収まってきているのか、時折思い出したように沈黙が充満する。
「……、……」
 鼓膜が微かに震えた。振り返ると、さきほどまでソファに寄りかかって昼寝していたはずの美雪が、酸素を求める魚のように口を開閉させている。
 小声──というわけではない。吹き荒れる
風に吸い込まれているだけだった。それでも何かを言おうとしていることだけは察知し、拓也は床を這いずって美雪のすぐ側へと寄っていく。
「さっきの、全然聞こえなかった。何だって?」
「連絡、こないねえ」
 連絡が来ない。
 電話が鳴らない。
 待ち続けている電話が鳴ってくれない。
 それは拓也もずっと気にかけていた。
「……この天気じゃしょうがないだろ」
「それはそうだけど……でも、駄目なら駄目って電話してくれると思うんだよ。電話はまだ通じるんだから」
 訴えかけるような眼差しから逃れようと、拓也はうろうろと視線をさまよわせた。カレンダーの上を通り過ぎたとき、大きく赤い丸で印のつけられた日付が目に留まる。
 十二月二十四日。
 クリスマスイブ──そして、竹井知之の誕生日。つい昨日までは、誕生パーティのことで毎日のように連絡をとり続けていた。それが今日の午前中でぷっつりと途切れている。パーティの準備ができたら呼ぶようにと、何度も念押ししたにも関わらず。
 一週間前、春奈の家に転がり込んでからの知之は、まるでどこかの線が切れたかのように明るくはしゃぎ回っていた。
 騒いで、叫んで、はしゃいで。
 どこか壊れてしまったかのように。
 どこか終わってしまったかのように。
 どこか途切れてしまったかのように。
 怒ったときには素直に怒りを露わにし、それと全く同じ大きさで喜び。全身全霊で竹井知之という人格を表現していた。誕生日には絶対にパーティをやろうと、誰よりも強く主張したのは知之自身だ。最初は乗り気だった春奈が途中から抑え気味になるほど、知之のはしゃぎようは異常だった。
 異常だったから──拓也は、異常だとは指摘できなかった。
「……五時まで待とう」
 自分に言い聞かせるように呟く。時計の針が午後五時を指すまでは待つ。電話が鳴って、慌てて階段を駆け下り、なんですぐに電話に出ないんだと怒られるのを待つ。
 もし──五時まで待っても、何も起きなかったとしたら。
 ささやかすぎて今まで見逃していたような幸せまで叶わないのなら。
 それはまさしく、世界が終わる瞬間なのだろう。
「……五時まで待って電話がこなかったら、春奈先輩の家に行こう。その頃にはもうちょっと風も収まってるだろ」
「……電話、くるといいね」
「……くるだろ。あいつが最初に誕生パーティやろうなんて言い出したんだから」
「……うん」
 叶わない望みだと思ってしまった。
 拓也も、美雪も。
 少しずつ諦め始めていた。
 諦め始めている自分達に歯噛みしていた。

 結局、七時半時まで待っても連絡はこなかった。

 のろのろとコートを羽織り、マフラーを首に巻き付ける。玄関を出ると冷風が頬を叩いた。風はずいぶんと静かになっている。あれほど激しく降っていた雨も、今は嘘のように小降りになっていた。さすがに道路は冠水していたが、それほど歩きづらいというわけでもない。長靴を履けば特に支障もなかった。
 街を歩くと、改めて終局の欠片がどんな傷跡を残していったのかがわかる──古い家は屋根ごと吹き飛ばされているところもあったし、そうでなくともほとんどの瓦は吹き飛ばされていた。ところどころで雨戸が壊れ、ガラスが割れている。外壁に亀裂が走っている家まであった。庭の木々は軒並み倒れ、へし折られている。道路の脇の側溝には、首輪をつけた犬の死体が転がっていた。家の中に入れてもらえなかったのか、それとも一度捨てられた野良犬なのかはわからない。溺死したのだろう、腹が膨れて血管が浮いていた。
「…………」
 美雪が黙って顔を背ける。
 拓也はふと、この光景が美雪にはどう見えているのかが気になった。
 眼球に渦巻き模様が浮かび、正常な思考能力を失う──全ての事柄に対して喜と楽の感情しか抱けなくなる病気、ハピネス症候群。
 その感染者である深沢美雪に、この滅びの一角はどのように見えているのだろうか。
(……俺と変わらないんだろうけどな)
 目に見えるものなど何も変わらない。
 幸せかそうでないかも本人が決めることだ。もしも美雪がこの世界を見て幸せだと思うなら、それはただそうであるというだけのことなのだろう。漠然と、噛みしめるようにそんなことを考えながら、機械的に両足を前へ前へと投げ出していく。春奈の家へは一度だけ知之に連れられて行ったことがあった。普段なら徒歩で五分も歩けば十分に間に合う距離だ。道路の状態が悪いことを考えても、それほど時間がかかるとは思えなかった。
(……暗いな)
 街路灯は消え、立ち並ぶ家々にも明かりは灯されていない。停電はまだしばらく復旧しそうになかった。両肩に暗闇がのしかかってくるような錯覚すら覚える。
 黒い絵の具で塗り潰したような夜空を見上げる。雲の間に浮かんだ月の縁から、意識に麻酔を打つような黄金色の霧が滴り落ちていた。霧は遠い街並みにまでまんべんなく染み渡っている。
 生まれて初めて、本物の月を見たような気がした。
「……春さんはさ」
「……?」
 ぴったりと三歩後ろを歩いていた美雪が、突然立ち止まった。訝るように首を傾げる拓也を無視して、美雪の唇はゆっくりと一定の音律で言葉を紡いでいく。
 まるでそれは、歌のように。
作品名:この雨が止む頃に 作家名:名寄椋司