この雨が止む頃に
春奈はいずれ殺されるかもしれない自分の運命に見切りをつけている。
美雪はハピネス症候群に感染して、どんなことでも幸せだとしか思えなくなってしまっても、ふらふらと不安定に生きている。
友人達に囲まれて、拓也は鍋を作っている。
誰に指図されたわけでもなく、自然とそんな選択を繰り返していた。ましてや言い訳するような真似はしない。全てはただ、なるようにしかならないのだから──流れるように流されていくしかないのだろう。
いつまでこの世界が続くのかはわからない。終局が訪れる前に死んでしまうかもしれない。だからといって何もしないのは癪だったし、自殺するのはひたすら馬鹿らしかった。最後まで生き抜くことに意味があるのかどうかもわからないが、せめて生き残るための努力ぐらいはしてもいい。大事な何かを少しずつ諦めながら、とりあえず生きて歩き続ける。
(それしかないもんな)
賑やかな室内を見渡して。
どうしようもなく無駄な時間が、どうしようもなく大切だったのだと今更ながらに気付かされる。
世界はずっと続くものだと信じて疑わなかった頃には忘れていたことを、今更ながらに思い出す。
自分が好きだから、自分で決める。
正しいか間違っているかも気にせずに、自分のことだけは自分で決める。
滅んでいくこの世界で、例え手遅れだったとしても。ようやく気付き、思い出せたことが嬉しかった。
「ほれ、鍋できたぜ」
「おー、なんか普通にうまそうじゃん」
「ほんと、器用だね。秋川は」
「拓さん……意外な特技発見だね」
「なんか誰も素直に俺のことを褒めてくれないのな……おまえら鶏肉なし!」
「水炊きで鶏肉なしって何食うんだよ!」
「……ネギとかあるけど、知之はネギ嫌いだったっけ?」
「私は椎茸好きだなっ」
楽しいから楽しいことをする。
四人は、大騒ぎしながら鍋を囲んだ。
大騒ぎして、大はしゃぎして。
食べ終わったらゲームに熱中して、ビールを飲んで、酔っ払った。
散乱した漫画本。
雑多に放り出された空き缶、空き瓶。
もはやどんな料理だったのかも判別のつかない混合食物。
大音量で鳴らされるヘヴィ・メタルと、それを凌ぐ声量の笑い声。
一体どれぐらい前から電源が入っているのかわからないテレビゲーム。
これらを複合して表現する日本語は、拓也が知る限り一つしかない。
まさしく、
それは惨状だった。
でも、楽しい惨状だと思った。
結局、日が昇るまで馬鹿騒ぎは続いた。
静かに──夜が落ちてくる。
部屋を閉めきって寝静まる。
それが朝でも、眠りは平等に心地いい。
「……拓也、起きてるか?」
厚手の布団にくるまって、知之がぼそりと呟く。
「……ああ」
まだ酒臭さが残る部屋で、少年達は互いに目も合わせずに、
「……俺、もうじき天使化する」
悲しいことを、話し合う。
隣の部屋から聞こえる、美雪と春奈の静かな寝息。二人とも酔っ払って、意識を失うようにして眠り込んだ。
今起きているのは、二人だけだ。
「俺さ……春奈先輩のこと、大好きなんだ」
「知ってるよ」
「うん。それでさ……うん。俺、全然先輩のこと知らなくて……先輩が、大切にしまっておいたこととか、思い出したくないこととか、一緒にいるうちに、色々と触ってさ……そのくせ、何にも格好いいとこ見せてないんだ」
「……そう思い通りにはいかないだろ」
ぽそり、ぽそりと。
小さな言葉は、暗い部屋の中に充満していった。布団に寝転がって見上げる天井がやけに低く感じられる。
「俺、どうして先輩を傷つけちゃうんだろう……どうして先輩の触れられたくないとこばかり触っちゃうんだろう。俺さ、もうすぐ天使化しちゃうのがわかるんだよ……一週間かそこら──ちくしょう、俺、先輩の最後の恋人なのに……全然恋人らしいことできてないんだ! カオだってガキくさいし、身長だって低いし、全然格好よくないんだ」
知之が泣いているのがわかる。
拓也は静かに髪を掻く。
こぼす言葉が、なんとか相手に届けばいいと願って。
「おまえはやっぱり先輩の恋人だよ、知之」
正しい言葉が、正しく届くとは限らないけれど。
せめてこの気持ちだけは伝わって欲しいと、そんなことを願って。
「先輩に言いたくないことを言って、先輩に知られたくないことを知られて、先輩がされたくないことをして、先輩が触れられたくないところに触って、先輩を傷つけたくないのに傷つけるんだろ? それはおまえが恋人だからだよ。おまえが先輩の恋人だから、どうしてもそうしちゃうんだ。恋人ってさ、弱いところ同士で触れ合わなきゃわかんないんだよ。弱いところ同士で擦れ合わなきゃ不安なんだ。いいじゃねえか、傷つけたら謝れよ。触っちゃいけないところに触っちまったら謝れよ。それで許して貰えるのが恋人の特権だろ? それで許し合えるのが恋人だろ? それでも一緒にいたいから恋人になったんだろ?」
もっとずっと格好いい自分でありたいと。
そう願うのは、馬鹿なことなんかじゃないのだろう。
一番好きな人だから、一番格好いいところを見て欲しい。
難解な芸術論を振り回したりとか、好きでもないドラマに話を合わせたりとか、そういうことをするのは、決して馬鹿なことなんかじゃない。拓也はそう信じている。
「おまえは先輩の恋人だよ。凄ぇじゃねえかよ、それでも先輩はああして笑ってんだぞ。こんな時代でも、あんなふうに酒飲んで、酔っ払って、意識失って、笑ってんじゃねえかよ。それは全部おまえのおかげだよ。おまえがいるから、先輩は安心して笑ってるんだ。もう助かりようがない未来を前に、ああやって凄く綺麗に笑ってられるんだよ。
だからさ、おまえは立派な、赤城春奈先輩の恋人だよ」
噛み殺した嗚咽が、少しだけ大きくなった。視界にこそ入っていないものの、知之が頭から布団をかぶったのが気配でわかる。
「……俺──俺、もっと格好いいところ見せたいのに」
「同感だ。うまくいかないよな」
「うまくいかない。全然うまくいかない──ちくしょう」
「……酔っ払ってるから、こんなふうなんだって思っといてやるから。明日から、少しだけ格好よくなってみろよ。それで先輩がもっと明るく笑えるようになるなら、それでいいじゃねえか」
知之は声を殺して泣く。
拓也も、いつか終わる未来を考えて泣く。
隣の部屋で寝ているふりをして、春奈もじっと黙って泣いている。
そんな人達が、それでも起き出したら「おはよう」と優しく挨拶を交わすことを知っているから、誰もが本当は優しいのだということを知っているから、だから美雪も泣いている。
目に映るものの全てを悲しませたくないから、誰かが見ているときには笑うしかない。
笑顔は少しだけ、悲しい。
竹井知之と赤城春奈に連絡がとれなくなったのは、それから一週間後のことだった。
■ □ ■ □ ■