この雨が止む頃に
MEN BEHIND THE SUN/受け入れられなかったとしても
■ □ ■ □ ■
「……この裏切り者」
「なんでいきなり裏切り者とか言われなきゃいけねえんだよ」
「うるさい黙れやかましい。いつの間にか女の子と同棲してるなんて、おまえなんか裏切り者だ」
「どっちかっていうと押しかけられた方なのですが、そこらへんは加味していただけないのでしょうか」
「許さぬ。切腹じゃ」
「早っ!」
他愛ない口喧嘩に、少年達は自然と笑い出した。はにかむわけでもなく、ただ喉の奥から笑いが漏れだしてしまう。
自分達二人以外に誰もいない教室は、かつての喧噪が嘘のように静まりかえっている。中身がないだけで入れ物はこれほど寒々しいものになるのかと、拓也は奇妙な感心を覚えた。それは目の前にいる童顔の少年──竹井知之も同じなのか、さきほどからどこかそわそわとして落ち着かない。
同じ学年の友人だというのに、知之はまるで中学校に入学したばかりの子供のように見える。身長は四捨五入すれば百六十だと言い張っているが、仮にそうだとしても小柄であることには違いない。やけに跳ねた髪は微かに赤が混じっている。これは母親からの遺伝で、父親と全く似ていないというのが知之の自慢らしかった。相当に家族仲が悪いのだという話を聞いたことがある。拓也自身はどうとも思わなかったが、知之には彼なりの悩みがあるのだろう。現に知之は、終局宣言が発令されたと同時に家を飛び出てしまっている。今は友人の家を泊まり歩く生活をしていた。拓也も何日か部屋を貸したことがある。ずっと泊まっていても構わないと言ったのだが、さすがに知之はその申し出を断っていた。
「あーぁ……ひどいよな。俺が人生について深く深ぁく悩んでるってときに、拓也は女の子と同棲してるんだもんな」
「別に同棲してるからどうこうってわけじゃねえし……いいだろ、もう」
「よくない。スケベ。変態」
「まだ何もしてないっつの」
「まだ?」
「まだしてないし、これからもしない」
「そういうこと言ってる奴に限って、さっさと大人の階段上っちゃうんだよ」
「なんだそりゃ……」
呆れ返ってこぼした言葉に、返ってきたのは失笑だった──鼻を通り抜けた失笑が、くしゃみのように弾けただけだったが。それも冷えた天井に反射してどこかへと消えていく。
世界終局宣言の発令以後も、学校には割合多くの生徒達が通学を続けていた。数こそ少ないものの、教師達も何人か顔を見せている。いつまで続くかもわからない日常に、多くの人間が最後までしがみつこうとしていた。責任感か現実逃避かの区別もつかない。それは拓也も同じだった。家にいるのがどうしようもなく落ち着かなくて、平日はできるだけ学校に足を運ぶようにしている。知之や他の友人とも顔を合わせる機会は多い。
それでもやはり、学校は日を追うごとに静けさを増していっている。時折窓から飛び込んでくる運動部のかけ声や、廊下を談笑しながら歩く生徒のざわめき以外、何の物音も拾い上げることはできなかった。
「でもマジで羨ましいなー……俺も先輩と一緒に暮らしたいよ」
「同棲したいですって言えよ」
「そんなん言えるか、バカ」
「臆病者め」
「ならおまえ言えるか? 言えるのか?」
「俺はもう必要ないし」
「うっわ、むかつく」
入学して半年ほど経った頃から、知之は一学年上の女子と付き合い始めた。詳しいいきさつなどは聞いていない。無理に聞き出そうとも思わなかった。
「だってさぁ……ほら、俺って病気持ちじゃん。やっぱキツいよ。そういうのって」
「……症状、進んでんのか?」
「ん? どうなんだろ……正直よくわかんないって感じ。背中とかたまにすっごい痒くなるけど、他は特に困ったこととかないし」
言い終えると同時、知之は一気に弛緩した。制服の上に羽織ったコートが盛り上がる。同時に背中の辺りがぶるりと震えた。深呼吸よりもさらに深い呼吸を繰り返し、一度だけ全身を大きく震わせる。
何かが擦れる音がした。
擦れてちぎれ、飛散する。
雪のように舞い散り、床に広がるもの──それは、羽根だった。
「……天使化、か」
天使化症候群──ハピネス症候群と同じく、終局の確認と同時に蔓延した奇病の一つ。
この病気に感染すると、その名の通り、背中に天使の羽根のようなものが生えてくる。羽根は症状が進行するほど大きくなり、それと並行して患者の筋力は日増しに増加していく。
症状がこれだけだったら、天使化症候群はさして恐ろしい病気とも思われなかったろう。むしろ筋力が増すぶん有用だとすら考えられたかもしれない。
だが、そうはならなかった。
もう一つ──天使化症候群に感染した患者には、致命的な症状が現れる。このために天使化症候群は、終局を迎えつつある世界の中でも最も恐ろしい病魔として広く認知されるようになったのだ。
羽根が大きくなるにつれて、患者は自分の意識を保てないようになる。最初は意識が混濁する程度だが、次第に患者は暴力性を増していき、最終的には見境なく人間を殺して回るようになるのだ。常人では及びもつかないような筋力を持った怪物に襲われて、助かる道理はない。
このため、患者は自分が天使化症候群だということを隠す場合が多かった。病気が進行する前に、他の人間によって殺されるという事件が後を絶たなかったからだ。
誰でも死にたくはないし殺したくもない。
結局、ほとんどの患者は症状が重くなる前に自殺してしまう。それができなかった患者は《天使》となり、多くの犠牲者を出すようになった。
「……先輩さあ」
病気のことはどうでもいいと言いたげな声で、知之が小さく呟く。拓也は視線だけで言葉の先を促した。
「お父さんもお母さんもいないんだけどさ」
「……ああ」
「《天使》に殺されたんだってさ」
両肩に見えない何かが載っていると言いたげに、知之は大袈裟に肩を落としてみせた。
「参ったなぁ」
「……おまえ、病気のこと先輩に言ったのか? 天使化症候群だって」
「隠したってしょうがないじゃん。一番最初に教えたよ」
「したら何だって?」
「ちょっと考えさせてくれ、だってさ」
あー、と拓也は胡乱な声を発した。露骨に落ち込んでいる知之を見やり、楽団の指揮者のように人指し指を振り上げて、下ろす。
「……あれだな。おまえはもうすぐ振られるぞ。絶対。間違いなく」
「うわー、拓也もそう思う? 思います? 思っちゃいますか?」
「間違いねぇっス。これからおまえのことをロンリーウルフと呼んでやろう。おっすロンリーウルフ! ダサい名前!」
「おまえが勝手につけたあだ名だろ! ダサいとか言うな!」
馬鹿騒ぎを空回りさせて、空回りを馬鹿みたいに繰り返す。
どう考えても無駄なことだった。現実から目をそらしても、結局目に映るものの全ては現実でしかあり得ない。嫌でもそれを思い知らされるときは必ず来る。
それでも──
「──それでもいいじゃねえかよ。もし本当に振られても、おまえ相当に格好いいぜ」
「……マジで?」
「マジで」
──それでも、目をそらす。
数秒でも数分でも目をそらし続ける。