この雨が止む頃に
それがただの逃避だったのか、それとも人間として残せる最後の抵抗だったのかはわからない。だが地球上に生きる人々はその道を選び、そして滅びに向けて日常を動かしている。発電所も魚屋もコンビニも、何一つ変わらず営業を続けていた。以前ほどの活気は望めないにせよ、それなりに仕事というものは残されていたらしい。
交通手段の混乱が当面の社会的な問題とされていたが、この問題は意外な方面からの協力を得ることによって解決した。運転手が絶対的に不足した鉄道会社を、かつての国鉄職員達が支えたのだ。国鉄民営化による人事編成で職を失った彼らは、それでも鉄道マンとしての誇りを抱き続けていた。
終局が近付くにつれ、天候は悪化の一途を辿ることになる。十月の半ばには日本各地で大雪が降り、平均気温を七度も引き下げた。その後も雷雨や雹、暴風と吹雪が吹き荒れ、最も明確な滅びの予兆として人類を苦しめている。現時点──十二月七日は、割合天気は穏やかな方だった。それでも例年に比べれば圧倒的に気温は低いが。
(そういや……)
どこかの山奥に某アイドルグループが村を作るというテレビ番組の企画は、世界がこんなふうになってからも続いていた。彼らはあの村で最後の瞬間を迎えるのだそうだ。それが崇高なことだとは思わなかったが、最後までやり通す姿勢は素直に尊敬できた。親兄弟、あるいは恋人を集め、彼らは今どことも知れぬ山の中で馬鹿騒ぎをしているのだろう。
(それがいいのか?)
来るはずのない明日に希望を託して、それで本当に幸せに近付いていけるのか? 拓也にはどんなに考えてもわからなかった。
足掻いて足掻いて、死ぬ直前まで足掻き続けて。
それが本当に最善の選択肢なのだろうか?
「……あは」
長すぎる物思いは、花の咲くような笑顔に打ち消された。染み込むような美雪の表情に頬を紅潮させながら、拓也は照れ隠しにつっけんどんな態度を返す。
「……どうしたよ」
「うん。ずぅっとここで考えてたんだよ。どうしても思い出せないことがあってさ」
「思い出せないこと?」
「うん」
うんうん、と必要以上に念入りに頷いて、
「家がどこだったのか、忘れちゃったんだ」
美雪はあっさりと言い放った。
完全に予想の範囲から外れた言葉を投げかけられて、拓也の意識が凍りつく。その隙を突くような素早さで、美雪はさらに突拍子もない言葉を畳みかけた。
「だから拓さん、拓さんの家に住むことに決めた」
「……なんだって?」
「拓さんの家に住むことに決めた」
「いやそこは繰り返さなくていいし。ていうか何を勝手に決めてんだよ、おまえ」
美雪が家に来て困ることというのも思いつかない。両親は世界終局宣言の発令直後に自殺してしまっている。取り残された虚しさと怒りが手伝って、拓也は何とか一人で生き延びてきた。近所に住む人達からの援助もあったし、役所に行けば少量ながら食料の配給が行われる日もある。美雪一人が増えたところでたいした支障はないとは思う。
だが支障がないというのは、ただ単に生きていくだけなら──という前提での話だ。現実問題として、拓也は母親を除けば女性と同居した経験などない。高校二年生という年代を考えれば当たり前だろう。クラスの女子とは普通に会話をするが、それだって当たり障りのない話題がほとんどだった。何となく気になっている女子もいたが、まさかいきなり同棲しようなどという話題を出したことはない。
「大丈夫。F=C・r二乗/ee'だもん」
「クーロムの法則か?」
「異性の電気同士は吸引するんだよ」
「……ああ、そう」
そういうものなのかもしれない。
諦めとはもっとも遠く、そして悟りにほんの少しだけ近い気持ち。
結局、現実に対して膝を折るしかないのだろう。食料は見つからなかったが、代わりにハピネス症候群にかかった女の子を一人見つけた。釣り合っているとは言い難いが、どちらに傾いているかも判断できない。
それなら──手の中に残ったものが本物だと、信じ込むしかないのだろう。
「さあ、拓さんの家に行こう」
歩き出す。
二人揃って、テンポよく。
少しでもずれたら立ち止まって、またテンポを合わせて歩き出す。
ずれないように、離れないように、二人は二人の家を目指す。
「世界が滅びるその前に、なんでこんなお荷物を背負わなきゃいけないんだ?」
「前世でよほど悪いことをしたんだね、拓さん」
「前世でよほど悪いことをしないと、おまえには会えなかったのか、美雪」
「その通り。悪いことバンザイ」
「……バンザイ」
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