かがり水に映る月
03.おかえりを言ってくれるあなたが、誰よりも好きだった(2/4)
遮光カーテンが光を拒み、底のない暗さを孕む静寂がどこまでも広がっているような、そんな室内。
一歩、また一歩と進むたびに英人は不思議な感覚にとらわれた。
まるで、降り積もったばかりの水気のない分厚い雪に足跡を刻んでいくような。漠然とした孤独。
自分が望んだこととはいえ、この部屋は世間から隔離されている。
そんな場所に「いたい」「いなければいけない」とすがった月。彼女は、どこにいるのか――
そう思った矢先に、進めた足先に何かがぶつかった。
「……月」
眠る体勢ではない。倒れるようにして、それでも横向きに軽く身を丸めて、彼女は床の上で眠っていた。
布団は部屋のすみにたたんであるのだから、広げればいいものを。
ああ、そうか。手足が縛られているからできないのか。出て行く前の英人に、そんな気を使う余裕はなかった。
仕方ないこととはいえ、少々心が痛む。
冬は幕を開けたばかりだが、夜中のフローリングは冷えるだろう。
「……月、帰ってきたよ」
布団と声をかけること、どちらを優先するか迷って、結局英人は月の隣にしゃがみこんでその頬をなでた。
無理もないが、身体が冷え切っている。触れた頬は、一瞬温度というもの自体を感じ取れないほど冷たかった。
反応はない。
呼吸も、微弱。
月は昏迷するように深く寝入っていた。ひどくたまっていた疲労と緊張の糸が、一気に切れたような吹っ切れた顔をして――英人にはそう感じたが、さすがにそれは憶測の域を出なかった。
信用しきったわけではないものの、放置しておくのもしのばれる。
英人はとりあえず、布団を敷いて、そこに月を誘導した。強引に身体を起こし引っ張ると、夢見心地なままではあれど動いてくれた。毛布をかけてやり、一息ついたところで自分の着替えをすますべくそばを離れる。
「(なんだか、保護者みたいだな)」
一息ついた瞬間に訪れるわずかな疲れと不安、そしてそれを覆うほどの安心感。
真も、自分の世話をしながらこんな感情を抱いていたのだろうか? 本当は、わかっていた。
彼女は、自分に依存しているのだと。頼りない自分が彼女に依存しているだけではない。
それ以上に、真は病的なほどに英人に、そして英人を支えている自分というものに依存していた。本人はそらすように否定していたが。
誰かに、それも一番大切な人に強く必要とされることで、真は自身の精神を維持しているに等しかった。
だが、強がりのうまい真である。周囲からは、友人も多く、世渡りのうまい人間だと思われていた。
何より、一人だったらそれはそれで生きていける強い人間だと、誰もが疑わなかった。
「……」
考え事をしながらの影響か、シャツのボタンを外す手がたどたどしくなる。
それだけ依存に身を預けていた彼女だからこそ、それができなくなった時のショックはすさまじいものがあったのかもしれない。
入院してしばらくは、面会に行くたびにぽろぽろと涙を流し泣いていた。
「どうしたの?」
「私の身体、動かないの。英人、ちゃんと自炊してる? 出来合いで済ませてない? 友達に心配かけてない?」
「してるよ。まあ、作るものは結構手抜きしてるけど。ごめん、真に随分家事とかまかせっきりだったんだなって、今になってわかった」
「いいの、だって」
「でも、意外と一人でもなんとかなるもんだよ。だから、心配しなくていいからさ」
意外と、一人でもなんとかなるもんだよ。
それを聞いた瞬間、真の表情が無を塗りたくったように血の気を引かせた。直後、堰を切ったように嗚咽を漏らしシーツを涙で濡らしていく。なぜ、こんなにも激しく泣き始めたのか。英人にはその時、理由がわからなかった。
だが、次に彼女が漏らした一言が後々になって判断材料となり、彼女の心の内を、生き様を明らかにする。
「そっか。そっか、そっか……。強くなったね、英人。私がいなくても、もう、大丈夫なんだね」
「そんなわけないだろ」という返答を、真は聞いていたのだろうか。聞こえていなかったのだろうか。
今となってはわからない。
――もう、大丈夫なんだね……。
それが、英人の聞いた真の人間らしい最後の発言になった。まともに成立した最後の会話になった。
次会った時にはもう、彼女は深海魚のように寝てばかりで、起きていても自発的に何も喋ろうとしない。
まさに、抜け殻になってしまったような、そんな。
「……そういうわけじゃ」
着替え終わり、なおも眠り続ける月のそばに再び座る英人。それが当たり前とでもいうふうに、両手の拘束を解いてやった。
すると、月は眠ったままで英人の方へと片手を伸ばしてきた。助けを求めるように。何かにすがらないと、落ちていってしまうと訴えるかのように。
それは無意識のうちの動作だったのかもしれない。ただ、寝ぼけていたのかもしれない。
だが、英人はそれに応えた。確かに彼女の手を握り、見つめる。起きる様子のない彼女は、それ以降動きを見せなかった。
「そういうわけじゃ、なかったんだよ……真……」
部屋に積もった目に見えない雪を解かし、巡り来る春に向けて、その時英人はわずかながらに、透明な涙を落とした。
依存してくれても、よかったのだ。それで二人生きていけるなら、たとえ二人の乗った流氷は少しずつ狭くなり水と同化していくとしても、今を生きていけるならそれで構わなかった。誰も真と自分の生き方に文句なんてつけさせやしない。
だから、泣かなくてもよかったのに。大丈夫なんだね、と自分の役割を喪失しなくてもよかったのに。
なつかしい感情が表出た。
あの時の一言がきっかけで、真は死という終着駅に向かう列車に乗ってしまったのではないかという――果てしない不安。
戻らない旅路への覚悟を決めてしまったのではないか。
自分が、恋人を殺めてしまったのではないかという、罪の意識。
「……泣かないで」