かがり水に映る月
03.おかえりを言ってくれるあなたが、誰よりも好きだった(3/4)
声とともに、英人の手がぎゅっと握り返される。
「泣かないで、英人。いえ、泣いてもいいけれど……一人では泣かないで」
「お前に、何がわかる……」
「……ごめんなさい」
まっすぐに向けられていた月の視線は、英人の輪郭を映りこませないように床へと投げられた。
それ以上、言える言葉を月は持っていない。発言力がない。権利がない。何も知らないのだから。
悔しかった。
月の胸の内に、今まで湧き上がらなかった感情が浮かんでくる。
英人の力になれない事による、もどかしさ。これでは、あの夜の――誓いを違えることとなる。
それは駄目だ。
それだけは避けなければならない。
それだけのものを、支払い手に入れたのだから。
「月。君がいると、僕は嬉しいんだ。でも、それ以上にずっと、苦しいんだ」
「なぜ?」
手を繋いだまま、静かな部屋に二人のやりとりだけが発される。
「君が、真じゃないっていう証拠がない。その上で君が、真である証拠もない。それが、つらい」
「どっちつかずな状況がいやってこと?」
「そう、なるのかな。君が違うといっても、僕は……ごめん、君が真に見える。見てしまう」
「……それは、構わないわ」
「構わなくない。それは、月という存在を否定することになってしまう。それができるほどおこがましくない」
「それなら、私が月という存在を否定する」
――彼女が何を言っているのか、わからなかった。
――自分が何を言っているのか、わからなかった。
お互いが、深く考える暇もなく、勢いと感情に任せて言葉をぶつけあっている。それ以上もそれ以下もない。
暗闇に慣れた目で、それぞれ相手の表情を伺っていた。相手の次の言葉を、行動を、待っていた。
それ以外に、今この状況を変えられる要素がまったく存在しないのだ。
カーテンは窓を開けていないので当たり前ながらなびかない。外からの風も入ってこない。
いつもは換気のためにも少しだけ開くようにしているのだが、今回はそれを行う前に月との大事な話に入ってしまった。
時刻は朝方。
出勤や通学のために、時折扉の向こうで規則正しい足音が通り過ぎるのがわかる。
朝の挨拶を交わす声もわずかながら聞こえてくる。上の部屋からは、一通りの家事を終えたのか掃除機の音が早くも昼の時間の幕開けとばかりに響いてきていた。
だが、あくまでもこの部屋は静寂より他にない。
何か、人の及び知れない力で隔離されているような錯覚。
壁や扉といったもので作られた境界を越えてはっきりと届くものはここに、ない。
結局、静寂を破ったのは月だった。
「そばに……いなきゃ」
そのひとりごちるような弱弱しい決意が、意味するところを表面だけながら英人は理解できた。
誰のそばにいなければならないのか。という、表面だけは。
だが、それでも確認したかったのだろうか――わからないが、問うてしまう。
「誰の……?」
返事は早かった。
「あなたの、そばにいないといけない」
より一層、手が強く握られる。これを離すともう、英人とともにいられないとでもいうような必死さだった。
英人にとって、そこに月と真がシンクロする、なにかしらがあった。
『私がいなくなっても、一人でも大丈夫なんだね』と言った真。彼女がそれを、蘇ってきてまで懸命に否定しようとしているような、そんな状況に思える。
自分の存在意義さえあれば、世間という在るべき世界に戻ってこられる。理由さえあれば生きていける。
理由がないのに生きているのは嫌だ。
理由がないのに死ぬのは嫌だ。
どっちが重いだろう。
……
理由がないのに、生きているほうが苦痛だ。
英人には自分が必要だ。もちろん、一人でいくつかはこなせるように教えて導いてやらねばならないが、追い詰められた先、最後には自分のところに帰ってくるようにしなければ。自分以外は平気で英人を裏切るのだと。見捨てるのだと。
そばにいなければ。
そうだ、そばにいなければ。
一人にしてはいけない。
その一心で、彼女は自分にすがっているのではないだろうか。手を離さないのではなかろうか。
自分だってそうだ。
疑念より、もう、この手を離してしまうと真との接点は一生ないものに潰えてしまうのではないか――
「どうすれば、いいの?」