かがり水に映る月
07.辞書には載っていない人狼伝奇譚(2/3)
「妹……?」
「利用……?」
二人の声が重なる。そしてこの時、かぶる声を動作に変えるようにして、皇と桂はすっと刃を引いた。
だが、ぴりぴりとした空気は消えない。むしろ、その場に満ちるそれは重苦しくある。
「見せてごらん、桂」
皇が淡々と言うと、桂はそれに有無も是非もなしに従った。あっという間に上半身が、冷たい冬の夜気に晒される。
英人は反射的に視界を手で覆おうとしたが、それは月に止められた。やさしく手首をつかまれ、下ろされる。二人に背を向ける桂。
「……なによ、これ……」
そこには、無残な現実があった。
無数の傷。切り傷、打ち傷、そして火傷の痕。明らかに一方的な暴力を受けた証拠の傷跡たち。
それも、今にはじまったものではない。古いものから新しいものまで、背を隙間なく埋めている。
「ひどいもんだろ」
「どういうこと」
弱い風に、皇の髪が揺れている。それをそのままに、皇は笑っていた。これ以上ないアルカイックスマイル。
「一つのテリトリーから、処刑されるべき純血種が逃げた。捕まらなければ、家族が犠牲になる決まりだ」
「……家族? 私には、そんな」
「いるんだよ」
言葉をさえぎり、否定し真実を突きつける。英人に入る隙間はなかった、ただ黙って聞いていることしかできない。
置いてけぼりにされているという感覚より、思考が追いついていないというふうだった。
「逃げたお前の代わりに、次の朔の晩に処刑される妹さ。と、ここまで説明すればわかってくれるかな?」
皇の笑みが、濃くなった。
にたりと口角を上げ、愉快とばかりに表情を歪めてみせる。
全身を、緩い電流のようなものがするりと抜けて、不快な部分を撫で回す。
それはあるいは、混乱という思考の細い糸であったのかもしれない。皇は、英人に猜疑心を抱かせようとしている。
容易にそれは察することができた。
何とかフォローして誤解を解かねばならないのだが、何と弁解すればよいのだろう。知らなかったのは月自身の罪である。
そしてそれに対しての罰が今この状況であるならば、甘んじて受け入れなければならないのではないだろうか。
恐怖に心満たされていた。逃げることで頭がいっぱいだった。違う、それらは言い訳にしかならない。
何も解決しない。自分の代わりに、処刑される妹――その妹にどんな顔を向ければいいのかすらわからない。
逃げさえすれば、外の世界にさえ出られれば、救いが与えられるものと信じていた。
その希望は一瞬にして打ち砕かれる。
英人は驚きの表情のまま、ぼんやりと脳裏で考えを走らせていた。
月は、純血種だから迫害されて、処刑を免れるために人里へ降りてきた。
でも、月が逃げれば彼女の身近な親族に対象が移る。誰かが刑を受けなければ、終わらない罪と罰の循環。
それを自分でないように、月は仕向けただけだ。無意識かもしれない。
いやなことは、それも命に関わるようなことは、逃げたくもなる。きっと、月は悩んで悩んで、果てにどうしようもなかったのだ。
そうに決まっている。
そうでなければいけない。
……?
自分の考えていることが、よくわからない。
「……それでも」
少しの沈黙を、月が突き破った。押し殺すような声は、顔を上げると同時にはっきりとした意志を抱き部屋に広がる。
皇は、その反応を予想していなかったようだった。首をかしげ、不思議そうにまなこを向ける。
「うん?」
「それでも、約束を違えるわけにはいかない」
――あの夜に、英人を守るためにかわした、ある人との約束を。
今は、話しても苦しい言い訳になるだけだ。むしろ、英人が自分を恨み袋小路にはまるかもしれない。まだ早い。
時がくれば必ず明かす事柄だとしても、今は秘めなければ。