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かがり水に映る月

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07.辞書には載っていない人狼伝奇譚(1/3)



「月」
鳥を閉じ込める籠の如く、罪人を拘束する鎖の如く、はっきりと発声される二文字。
女の眼球だけがすっと動いて、月をまっすぐに見やった。緊張した空気が部屋に満ちる。
足がすくんで、英人はそこから一歩も動けないし何かを喋るのもいっぱいいっぱいだった。状況を見守ることしかできない。
「吸血鬼か、それとも人狼……!」
「いかにも」
言い、微笑む。その笑みが、二人にはにたりと意地悪く笑ったように見えた。
皇の言葉は続く。
「どうするのかな? 月。君はこの状況でどうするんだい?」
「はっ、笑わせないでよ……あんな入って来方したら、人が来て……うん……?」
「人が来て?」
顔を一気に青くする月。深夜にガラスを叩き割ったというのに、その音で誰かが目覚めて、近所迷惑だと戸を叩いてもいいはずなのに。電話がかかってきてもいいはずなのに、一帯は静寂のまま崩れない。
それどころか、隣人が起きる様子すらない。
おかしい。
何かが、狂っている。この場は。
「助けを求めるなら求めてみるといい。叫びたいなら叫ぶといい。だぁれも、こないよ」
「――暗示結界!」
「ご名答」
吸血鬼、あるいは人狼がもつ特殊能力。多くは視覚を用いて暗示をかけるので、魔眼とも呼ばれる。
それを用いて、あるいは視覚以外の五感に訴えて一帯に暗示をかけ、隔離空間をつくる――高等技術。
「英人」
「……」
「英人ッ!! しっかりしなさい!!」
「えっ! あっ」
返事を確認するなり、英人の腕を握り引っ張りながら月は玄関へと駆け出す。自分ひとりの力では、敵わない。
相手が悪すぎる。
これでは、英人を守ることなど夢のまた夢である。英人と違い、彼女は冷静だった。
皇はゆっくりと追ってくる。わざと、恐怖心を煽るように、ゆっくりと歩を進めて笑顔をはりつけたままで。
チェーンを震える手つきで外し、施錠を鍵が壊れんばかりの勢いで解除し――飛び出そうとして、英人を押さえつける月。
英人はつんのめって、バランスを崩したが月が抱きよせる形になっているため転ばなかった。

女。
扉の前に、死んだ何かのような目をした生気のない陰気な女が立っている。
その髪の色は、皇によく似ていて。
「鬼ごっこのルールに、はさみうちはないんじゃないの……」
「ご用心を」
「!」
桂が俊敏に英人を軌道線に置いて踏み出す。ぼんやりとしている英人に防御の術はない。
ただでさえ、人間である彼が吸血鬼絡みの種である桂に敵うはずがないのだ。
月は自分でも無意識のうちに、英人の頭を押さえつけて姿勢を落とさせた。そして桂に反撃の一手を打とうとして、首筋に当たった冷たい感触に硬直する。場は静まり返り、誰もの動きが止まった。
「ぐっ……」
反対方向、部屋の中から駆けつけた皇が、月の首にナイフの刃を当て完全にホールドしていた。
皇が動くことを予想できなかったわけではない。だが、その動きを想定する余裕はさすがの月にもなかった。
ぎらつく刃。
――それが、対で、もう一刃ある。
「……」
「月から、はな、はなれ……」
英人だ。
流し場横のラックに、危ない場所だが置かれていた果物ナイフがさきほどの衝撃で床に落ちたらしく、とっさにそれを握って桂に向かって突きつけている。
震えながらも、懸命に抵抗する姿が、月に勇気を与えた。目線を上げ、皇に対して強気に問いかける。
「何をしに来た」
「君を、迎えに」
「私はここから……離れるつもりは、ないわよ」
「月、おとなしく家にお戻り。少なくとも、お前が利用しているその人間と、お前の代わりに苦しんでいる妹は助かる」


作品名:かがり水に映る月 作家名:桜沢 小鈴