かがり水に映る月
06.視線一つで傾倒し狂うこともある世の中だから(2/2)
生活音のほとんどない、静けさが耳にわずかな痛みを伝えるほどの時間帯である。
しばらく沈黙に身をゆだねていると、英人にも誰かの足音が聞き取れた。確かに一人ではない、二人か三人だろうか。
以前空想した、月の両親が――などという、のん気な雰囲気ではまるでない。
むしろ、これ以上なく殺伐としていた。それは、部屋に篭城する者にとって恐怖をいざなう。
「……月」
もう、完全に睡魔からは覚醒していた。思わず視線や気持ちのやりどころに困り、すがるように英人は月に呼びかける。
返事はない。
追っ手、という物騒な表現。この密室からひきこもって一歩も出ないさま。
このゆっくりと近づいてくる足音が、一つ一つ部屋を確認するようにして来たる数人は、敵意どころか殺意をもっているのかもしれない。
月をおいそれと渡す気はない。
だが、自分が盾になって何ができるのだろう? 英人は混乱しながらも考える。
もしかすると、相手が表世界に生きる存在ではなく、自分は知ってしまった罪によって処分されるかもしれない。
相手の狙いは月なのだ。
自分ではないのだ。
ということは、口止めをほどこされる可能性は多々にある。
何も知らない、何も見えてこないという現実が、たまらなく怖かった。
足音がすぐ壁の一つ向こうで止まった。
そして、そのまま動く気配がない。一秒がひどくねっとりとしていて、重かった。何故通り過ぎてくれないのか。
次の部屋へ移動してくれないのか。夢であれば、よかったのに。
「……喋らないでね、英人」
月がささやき終わると同時に、玄関のインターホンは押された。
一度。
二人とも、沈黙したまま動かない。居留守が通用するとは考えがたいと共通の認識をもっていたが、どうしようもない。
ベランダから飛び降りるにも、ここは六階だ。
二度。
気のせいとわかっていても、相手の息遣いが感じられる。インターホンの鳴らし方は、機械のように規則的で落ち着いている。
夜明けが近くないことが幸いだった。一人じゃないというのは、心強い。
三度。
同時に、がちゃりとノブを回す音がした。英人は驚きに思わず、後ろずさる。
「ひっ」と声をあげそうになって、急いで口をふさいだ。だが、強引な手段にでも出ない限り入れはしないのだ。
チェーンはかけてあるし、もちろん鍵だってかかっている。
四度目のベルは、定刻にはならなかった。
そのかわり、動いたのは月だった。はっとしたように身体の向きを反転させ、ベランダに続くカーテンを見る。
その後の動きこそ、俊敏であった。
「英人、壁に寄りなさいッ!!」
言い終わるより早く、月は英人を突き飛ばすようにして壁際に突進した。
耳をつんざくような音――ガラスの割れる音。押されて壁に叩きつけられた英人が月越しに見たのは、不恰好に切れたカーテンと大きく割れた窓ガラスだった。月明かりが差し込み、逆光となってそこに異質な存在を知覚する。
「――――」
言葉を失った。月光を背に、窓を叩き割り飛び込んだと思われる――黒い衣服に身を包んだ女が、そこにいた。
オリーブグレーの長い髪は乱れることもなく、どこまでも冷たい無感情な瞳がこちらを見ている。
ひどく、美しかった。
触れては枯れてしまう百合のような、背徳感に満ちた美しさをたたえていた。
どこかで、見たことがある?
どこで……?