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かがり水に映る月

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05.歪んだ歯車を拾い上げて、本当どうかしてるみたいで(4/4)



「ただいま」
冬の寒さも厳しさを増し、夜の間はまれにではあるが吐く息が白くなることもあった。日々は過ぎ去っていく。
何も知らなくても、それだけは止められない。
形あるものは確実にその形が壊れる瞬間へと近づいていく。記憶は磨耗していく。そんな中で、人は生きている。

「おかえり、英人」
「まだ起きてたの? 危ないよ」
「ご飯を作っていたのだ」
「はあ」
半分流す具合で月の言葉を聞きながら、靴を脱ぐ。変化の乏しさが、逆に月との生活の中では安息だった。
帰れば月がいる。
この事実が、どれほど英人にとって嬉しいことだろう。おかえりと言ってくれる存在がいること、それがどれほど。
月が作っていたのは、匂いで薄々察していた通りシチューだった。やっと具を均等の大きさに切れるようになったらしい。
あたためる時間を作りたくなかったのだろう。仕事を終え、寒い身で帰ってくる自分のために。
そんな彼女の健気さがいとおしい。英人は、シャワーを先に浴びたいという考えを振り切り先に食事をとることにした。
と、ここでわずかな違和感に気づく。
月がやけに真面目な顔で、ぱたぱたとこちらへ――玄関へと駆けてきたのだ。
「どうした?」
「……」
「月、」
「英人。ここ数日、誰か来た?」
「え」
「答えて」
真面目で低い声。両肩をつかまれ、正面から見据えられ英人は物怖じした。
周囲の空気が凍るような錯覚。何か、気持ちの悪いものが右から左へ流れていくような、曖昧で漠然とした不快感。
まっすぐに月の相貌が英人を射抜く。
目?

『目を、見ちゃだめ』

何か、それに関連したことがあったような気がする。ちりちりと、記憶の壁が焦げる。
だが、核心には至らない。届かない。英人がかけられた暗示は、相当に強いものだった。
それに気づく者はここにはいない。あの時、月は眠っていた。完全に現時点では詰んでいる。
英人は、そんな籠の中で思い出せる限りのことを絞り出す。
「いや。集金とか、宅配は来たけど」
「それだけ?」
「うん」
「あがらせてないのよね?」
「そりゃあね。月もいるし、あがらせる理由もないし。他は誰も来てないよ」
「だと、いいのだけど……」

月の動きが変わった。機敏になり、踵を返したかと思うと今度は部屋の中へとすたすた去っていく。
いつものふやふやした月ではない。
彼女に続き部屋に向かうと、厳しいまなざしで月はきょろきょろと部屋中を見回っていた。
ふと、写真立てを持つと、裏側を念入りに調べていたりする。
「何やってんだよ、月」
「……気のせいかしら。確かに、気配がしたのだけれど」
「何の?」
「……」
聞いても、返事はない。もはや英人の声や姿は心の片隅にもないらしく、あちこちを調べまわっている。
英人はそんな月の挙動に、正直むっとした。出迎えてくれたさきほどのことが、幻のように記憶から薄れる。
一体なんだというのだろう。
自分は、正直なことしか言っていないというのに――疑われている? 信じてもらえていない?
「……シャワー浴びてくる」

その後、タオルで濡れた髪を拭きながら鍋のシチューを口にした。
ひどく、味気ないぬるさで満たされていた。


作品名:かがり水に映る月 作家名:桜沢 小鈴