「哀の川」 第二章 変化
夫功一郎は玄関にへたり込んで麻子の肩に手を掛け、耳元で「おれの部屋に来い」と呟いた。麻子はとっさに、「まだお風呂入っていないから、ちょっと待ってて」と返事した。自分が風呂に入っている間に夫は寝てしまうであろう、いや寝て欲しいと願ったのだ。じっと見つめられて、麻子はどことなく気が引けた。
「風呂?そんなの後にしろ!すぐに来い、いいな・・・」
「はい、あなた・・・ではご一緒に参りましょう」
おぼつかない足元を支えながら階段を上り、手荷物は玄関に置いたまま、部屋に入った。ベッドの上でごろんと横になった功一郎は、上着を脱ぎ、麻子を手招きした。自分も上着のボタンを外し始めた。下着姿になった麻子を見て、意外なことを言った。
「何してるんだ!お前はしたくなったのか?」
「あなたがお誘いになるから脱いだのですよ」
「おれは誘ってはおらんぞ!話がしたいから部屋に来いと言ったんだ」
「それならそうと仰ってください。恥かくじゃありませんか!」
「お前が勘違いしただけじゃないのか。それとも欲しいのか?」
「そんな事ありません!あなたには私は必要ないでしょ?」
「どういう意味だそれは!まあいい、ここに腰掛けろ」
功一郎はアメリカで聞いてきた事業に係わる重要な話題を話し始めた。それは、近々戦争が始まって株や経済が暴落するとの噂であった。一部の金持ちは資金を引き上げているとも聞いてきた。麻子には良く分からない話であったが、夫は自分に話す位だから、不安な気持ちになっているのだろうと予想した。
この年の株価は過去最高値を更新していた。功一郎の顧客からも絶大な信用を寄せられ、感謝もされていた。麻子が買ったゴルフなど、麻子自身の銀行預金の利息で簡単に買えていた。そんな経済状況の中で夫の話は、にわかには信じられなかったが、嗅覚の鋭い夫のことだからそうなんだろうと思えた。
「私にはどうしろと仰るのですか?」
「考えていたのだが、まずお前名義の株は二三日中に売って銀行の定期預金にしろ。純一の名義の分もそうしろ。おれは顧客の皆に売るように勧める。自分の分はもう手配を掛けた。解ったな?全部だぞ」
「はい、引き止められてもあなたから言われたといって進めますね」
「それでいい。では寝るから・・・それとも抱いてやろうか?」
「結構です!私はお風呂に入ってきますから」
「連れないなあ・・・そういわずに久しぶりにこっちへ来いよ。夫婦だろう?」
「こんな不安なお話聞いた後でそんな気分になれませんよ!違います?」
「それとこれとは関係ないぞ!早く来いよ!」
「ダメです!・・・何をなされるの!イヤって言ってるでしょ!あなた・・・」
功一郎は強引に麻子を引き寄せた。さっき見た下着姿を思い出して興奮してしまったのだ。抵抗したが麻子はもう裸にされてしまっていた。身体をゆっくりと舐めまわす夫は直樹とは違い老獪なテクニックを持ち合わせていた。こころは逃げるが身体は反応していた。「直樹、ごめんなさい・・・」そう心で叫びながら、夫の行為に絶頂を感じてしまった。
それからの直樹は毎週日曜日にダンスのレッスンに通い、その後は麻子とホテルに行く事を繰り返していた。秋も深まりやがて12月がやってきた。町中に電飾が灯り、クリスマスソングが響き渡る。今まで一人で迎えてきたクリスマスだったから、世間の関心をよそに淡々と過ごしていた。今年は違う。恋人が居るのだ。誕生日よりももっと二人にとって大切なその夜を今年は麻子と過ごす。
麻子は直樹との約束で23日土曜日に二人で都内のホテルに宿泊する予約を入れていた。夫功一郎は、香港に行っていてその頃は日本に居ない。息子純一を義母に預け、自分は外泊する事を決めていた。
何気なくテレビを見ていた直樹は、ニュース番組でアメリカ軍のパナマ侵攻を聞いた。麻子が以前に話していた、近々戦争が始まると言う話題が頭をよぎった。また、今年はオーム真理教の暗いニュースが続いたから、最後ぐらい明るいニュースで締めくくって暮れなのかと、期待したが、直樹には関係のない株価の上昇だけが連日報道されていた。
23日になった。仕事を終えて約束の7時に渋谷に来た。そこは物凄い人で溢れかえっていた。警察官が街頭で人の流れを規制していた。今日は車じゃなく歩きで麻子と待ち合わせていた。これでは見つけられないと、キョロキョロと探し始めたがやがて手を振りながら麻子は近づいてきた。傍に来た麻子の両手を握り締めた。そして、直樹の右手と、麻子の左手を強く握り合わせて、人ごみを避けるように歩いた。
「直樹、今夜は二人きりだね。ずっとこの日を待ち焦がれてきた。直樹は?」
「ボクもそうだよ。今日が二人の最高の想い出になるよ!」
「・・・来年もあるでしょ?その次も・・・そう言ってくれたわよね?ずっと傍に居る・・・って」
「ああ、もちろんだよ。今日は最初の想い出になる訳だよね。来年もきっとこうしているさ。そうだ、プレゼントを買いに行こう!少しだけどボーナスが出たから、考えていたんだよ。何が欲しい?」
「直樹・・・そんなことしてくれなくても、逢ってくれるだけで最高のプレゼントだから・・・」涙がこぼれてきた。繋いでいる指にぎゅっと力を込めた。
どんな高価なダイアモンドより今日直樹が買ってくれるプレゼントの方が麻子には嬉しかった。宝石店でカップリングの指輪を見つけた。直樹は構わないが、麻子はこれをはめる事に抵抗があるだろうと想像した。店員が勧めてくれたけど、躊躇した。
「直樹、私は構わないのよ。直樹とお揃いがいい。ねえ、はめて見てもいい?」
「うん、これつけてもいいですか?」
ケースの中から指輪を取り出して店員は二人の前においた。
「ピッタリだわ!ねえ見て、似合うかしら・・・」
「とても素敵だよ、じゃあ、ボクはどうかな・・・あれ?ボクもピッタシ!店員さん?解っていました?それはないですよね、ハハハ・・・」
「まあ、冗談言って、仕方ない人ね。ねえねえこれにしましょうよ!これが欲しい!」
「はいはい、分かりました。もう、子供みたいにはしゃぐんだから・・・すみません、これ下さい!支払いは現金で・・・って当たり前か」
この時代クレジットカードは凄い勢いで普及していた、いやさせていた。みんながカードを使うようになっていた。ゴールドカードで支払いをすることが、格好良かったのだ。ただ、どんなに申し込んでも直樹はその資格がなかった。麻子は普段は現金だが、夫の家族カードで数枚のゴールドカードとプラチナカードを所有していた。直樹の前でそれを使うことはなかったが、今夜のホテルはカードで自分が支払う事にしようと思っていた。店を出た二人の指にはそろいのリングが光っていた。ハート型をデザインしたピンクゴールドのそれは、永久に二人を繋ぎとめるかのように、今日だけは見せていた。
作品名:「哀の川」 第二章 変化 作家名:てっしゅう