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美しの森物語

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日本の古代文字を、皇国史観にもとづいた偽作だという人がいるが、それはただ批判のための批判で、みんながそう言うからと云うぼんくらだよ。 
記紀の元となったと言われる、聖徳太子が曽我馬子と編纂した、先代旧事本紀のことは、先ほど言ったから良く解るだろ?
それに「社伝記の年が違う」と言う人もいたが、社伝記を一度も読んだ事のない人だよ。自分の無知をさらけ出しているよ!」
博司には 難しすぎた。・・が先生は
「私の個人的な考えを 言ってもいいかね。少し誤解されるかも知れないがね。」
と、お茶を飲み干してまた話し始めた。

昔の話だよ。 のちに飛鳥文化を創った九州の倭国のことだがね。
紀元前十世紀頃に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や 天照大御神(あまてれすおおみかみ)らの偉人たちが治めていた高千穂国が南九州にあったんだ。
その天皇家の草分け的存在の天之御中主神の、天孫族の末裔たちの倭国人が、阿智神社を奉り、またその末裔の赤須彦が大御食神社を奉ったのだよ。
阿智には高千穂朝時代の天思兼命の子孫が来て、信濃の祝(はふり)の租になっているよ。それに天手力男神(あめのたじからおのかみ)も縁があるのだね。
高千穂国の時代の後、九州政府の中心は、阿蘇を背に有明海を望む卑弥呼の倭国(やまとのくに)に移ったんだ。 当時魏の国では邪馬台国と呼んだ国だ。 卑弥呼の名は 日向(ひむか) と言うのが 本当なんだよ。
その後、倭国 最後の頃の九州王朝の中心は筑紫の大宰府に移ったんだ。
五世紀の「倭の五王」の居たところだよ。
景行天皇はその九州天皇家の系統なのだが、皇子の倭武尊が三世紀の終わり頃に此処に立ち寄ったんだね。
赤須氏は同じ九州ゆかりの天思兼命の末裔だから、日本武尊をお迎えした時、頭槌(かうつつ)の御剣と、八華形(やつはながた)の御鏡と和幣(にぎたえ)を真榊(まさかき)に掛けて迎えたんだ。
明治の始めに落合直澄が記した鏡と剣との画が有るから、もし現物があれば検証するとおもしろいがね。
七世紀に、白村江で敗退して力を無くした九州倭国はね、以前から近畿に進出していた分家の近畿天皇家に併呑されたんだ。
日本という名称はこの前後から使われ始めたのだが、この時に、以後千年の藤原氏支配という、日本の権力の構造が出来たんだ。
唐・高句麗系の藤原は天皇家を御旗にして、律令制度を武器に、公家と云う鎧を着て日本の原住民や、伽耶・新羅・契丹の帰化人らを支配したんだよ。だから日本書紀を編纂して分家の近畿天皇家が正統だと、体裁を整えたんだ。
それから他の有力な部族を滅ぼし、他に伝わっていた古文書も消してしまったんだよ。焚書だよ。
梅原猛氏は『藤原の賢明な悪党たちは、千年もばれない悪をやった』とまで言ったが全く同感だよ。

その後、藤原摂関家は、伊那谷では光前寺と仲仙寺を造って荘園経営をして、また従わない原住民が多くいた所では、瑠璃寺の薬師様信仰で巧妙に支配したんだね。
阿智はね、比叡の山王権現に姿を変えさせられて、戸隠へ移封させられたのだよ。
阿智の別裔(わけはっこ)の赤須家は、かろうじて残り、古代文字文書も残ったのだが天明の火事で 焼けてしまったのだな。
それから此処のね、夷の付く飯島,飯田,恵那はね、飯山もそうだが、藤原政権が天孫系原住民の 子孫らを閉じ込めた俘囚の地なのだ。
だから原住民は大宝律令以来ずっと虐げられて来たのだ。
古代信濃の郷里が『和名類聚抄』に記録されているが、古代の伊那郡の郷名を知っているかい?
伴野・小村・麻積・福知、それに輔衆だがね、輔衆は俘囚のことで、阿智以南だと思われるのだ。
いずれにしても、地名は権力者、藤原家の施策で都合良く変えられているのだよ。 
またね、駒ヶ岳という名は、北陸中部以北にあるのだが、列島の原住民が付けた名であるが、川の名前も同じで、権力者にとっても悪い名前ではなかったから、古代のままなのだ。

江戸時代から戦前まで続いた豪農にも庶民は虐められたよ。中世からの『本百姓』は別だが、昔の大地主は、金貸しをして土地を広げたのだよ。だから 彼らのことを『質地地主』と言うんだ。金を貸して田畑を質入れさせて、流れた土地を手に入れたのだ。
そして元の農民に小作させてね。これが地主小作制の起こりだよ。当時の成金地主なんだ。

それからね、昔の比叡山のお寺は律令体制そのものさ。 藤原政権の貴族権力のためのものだったんだ。だからどの寺も立派じゃないか。そうそう、光前寺では昔、早太郎の話を種にして、薬を売って儲けた連中と組んで、かなり潤ったみたいだね。

だがね博司君、天皇家の伝統が 天之御中主神,天照大神から連綿 三千年近く続いているのはね、天皇家は日本の原住民と同根なのだ、という事を庶民は知っているからなのだよ。決して外から権力者が来たのではない、という事が分かっているからなのだ。
そして阿智神社と大御食神社はね、その南九州王朝ゆかりの神社なのだよ。だから本当に古いんだ。」

ようやく 話し終えた先生は、現役の時と変わらない情熱の人だった。 授業の時に島崎滕村の「夜明け前」を、泣きながら話してくれたことを博司は想いだしていた。



祭りの朝、天気予報は晴れだが空はまだ曇っている。
それぞれが身支度をして、町内会の集会所に集まった。
博司は白い短パンに法被、白足袋にセッタだ。 豆絞りの手ぬぐいを肩に、身も軽い。
何か連絡が有るかと周りを見回したが変った様子は無い。 ただむすびと御神酒の他に朝からビールが沢山有ったくらいだ。 むすびをほおばり、皆で町外れの獅子行列の出発場所の公園に移動した。
主役の獅子は行列の一番後ろに鎮座している。 氏子の衆は華やいでいる。 子供達は人形みたいに化粧し着飾って可愛いらしい。
全員で記念写真を撮ると行列の役者達はそれぞれの持ち場に整列し、まさに出発しようとしているが 誰もまだ何も言って来ない。 昭夫も知らんぷりをしている。 こちらから聞くのも憚られた。
やがて総勢二百人を越えた行列は、田村団長の合図で大太鼓が連打され、笛も横田さんの合図で始まった。 そして「そらーい」の掛け声と共に一気に祭は動きだした。 笛太鼓は上手く合っていた。
羽織袴姿の祭典青年団長も、それに続く若衆達も威風堂々として晴れがましい。 行列はすっかり晴れた街なかの通りを練り進み、町の衆にたっぷり披露して、昼過ぎに一旦解散となった。

夕方からの行列はお宮の手前からだ。 灯の入った角燈籠を持った町内会の役員達が警護に加わり、子供たちはいない。 薄暗くなった中に行列は出発の合図を待っている。 沿道の紅や藍で彩られた燈籠にも灯が入り、博司は気が高ぶっていた。
博司は連絡を待ったがそれらしい気配が全く無い。 しびれを切らして昭夫に聞いた。
「連絡はないのか。」
「なに? 連絡って。 ああ、あれか。 あれは無くなったよ。 手打ちをしたのだ。」
昭夫は事も無く言って笑った。 博司は拍子抜けしたが妙に納得した。
やがて練り出した行列は 家影の少ない通りをお宮まで一気に進み、境内で一休みだ。 そして いよいよ最後の練り込みの体制に入った。
作品名:美しの森物語 作家名:史郎