秘密の海岸
道中、雨足は徐々に弱まっていき、雲間から現れた海岸線の太陽が照り出し始める。潮風に混じって、ついに雨が上がったことを告げるかのように、濡れたアスファルトの匂いが僕の鼻を爽やかにかすめた。
海の反対側には、昔からある大きくて立派な楠木。それを懐かしくわき見しながら、ゆるやかなカーブに差し掛かると、例の美しい海岸が見下ろせるようになる。今度は少しだけ寂しさを胸に覚えながら、入り江のようになった崖下に放置された、かつて立派だったであろう、持ち主のわからないおんぼろヨットが映る。
色んな思い出を重ねて景色を愛でながらひた歩くと、小高い丘の向こうにポツンとひとつ、赤い屋根の家が視界に入って来たのは、もう町がすっかり暮れなずんでいた頃だった。
「ピンポーン」
柄にもなく、インターフォンを押した途端に、緊張が押し寄せてくる。
ほどなくして、リビングの方から真っ白なワンピース姿の彼女が玄関までやってきた。土地柄もあって、夏の間明るいうちは昔からこの家のドアは開きっぱなしだ。
「歩いてきたの?ゆっくりだったね」
髪をやさしくかき上げてそう言いながら、シンプルな白のサンダルを履く。
「車じゃ通ることもあったけど、やっぱり歩くと景色って違って見えるなぁ、って。今さら思った」
そう言いながら僕の視線は、赤いリボンの麦わら帽を持つ彼女の右手に移った。
「そうかも。ここの景色が毎日見れなくなる前に、私もよく見とかなくちゃ。……仕事、相変わらず?」
それは昔、僕の家にたまたまあった麦わら帽。姉のだったと思うけど、気に入らなかったのか被りもせずに居間に飾られたままで、それを見て逆に気に入ってしまった彼女にあげたものだった。
「うん、忙しい。もう3年目だけど新しく覚えることもどんどん増えるし、参ってる。で、どっか行くの?」
僕を追い越して外へ出た、彼女の背中に呼びかける。
「少し、歩かない?」
振り向き気味に屈託なく笑って言うと、彼女はそのまま行ってしまった。言われるがまま、僕も、後を追う。
「大きな楠木は、ガリバーの木」
さっき通った海岸線から浜辺に出ると、彼女は立ち止まって気持ちよさそうに言った。
「ぼろぼろのヨットは、ロビンソンのヨット」
夕暮れが近づく入り江を指さし、そう続ける彼女の横顔を、水面に写った茜色がまばゆく、それでいて自然にきらめかせる。
「私の赤い屋根の家は、トム・ソーヤのおうち。」
遠い目をしながら、今度は自分の家を指さす彼女。
黙って聞いていた僕に構わず再び歩きだすと、波打ち際に沿うようにして進み始める。
僕は、少し距離を置いてそれに習いながら言った。
「亡くなった親父さんと、一緒に考えたんだっけ」
頷いたかどうかは定かじゃなかったけど、彼女がそれを聞いてピタリと足を止めたのは確かだった。少し、うつむき加減に。
「……この海岸は?名前、つけたの?」
僕が話をそらすように海を見ながらまたそう口を開くと、ようやく彼女がこちらに振り返った。まともに顔を見ることさえ、本当に久しぶりだった。
ゆっくり、3歩、4歩と距離を縮めて、まっすぐな眼差しで僕の目の前にやってくる。
夕日を浴びた彼女の表情があまりに綺麗で、僕はかすかなめまいを覚える。
「秘密の海岸。今、考えた」
そう言葉を発した次の瞬間、彼女のそれが、僕の唇に、突然、重なる。
赤いリボンの麦わら帽が、潮風とともに舞い落ちる。
それは、一瞬とも永遠とも言える、長く、短い時間だった。
「忘れないでね」
”私を”。
ゆっくりと体を離しながら、美しく潤んだ彼女の瞳は、僕にそうつけ加えた。
砂浜に落ちた麦わら帽を拾うと、さっき家の玄関でもそうだったように、そのまま僕を横切ろうとする彼女。
僕は精一杯明るい声で、振り向かずに言った。
「ありがとう」
しかし当然のように、彼女が砂を踏みしめる音は止まらずに、ただ、段々と僕から小さく遠ざかっていくだけだった。
「…元気で」
振り返ることなくそう呟くと、僕も、海岸を後にするため歩きだした。
さよならと思い出。そして、ぬくもりと希望が入り混じった、この、秘密の海岸を。
僕はこれから、旅に出る。
ガリバーがそうしたように。
ロビンソンがそうしたように。
トム・ソーヤがそうしたように。
人生という大海原に、船を出す。
そう、彼女も、そうしたように。
だけど船は、いつか難破するかもしれない。波に飲み込まれ、助からないかもしれない。幾多の苦難を乗り越え、やっとの思いでたどり着いたのが、猛獣うろつく、無人島かもしれない。
食糧は?寝床は?安全は?生きていく、意味とは?
僕はまた一から船を造るために丸太を削り、木の皮でそれを縛る。時間のかかるひとつひとつの作業を、何度も何度も続け、積み重ねる。
立派でなくてもいい、海に出られさえするなら、丸太船でも十分だ。
作物を育て、毛皮を作り、雨から飲み水を得る。
何かに失敗しても、またそれを繰り返す。それでも駄目だったら、またやり直せばいい。また、頑張ればいい。ひとつひとつ。何度も何度も。
もう準備は、できている。
苦労して作った手製のオールで、力いっぱい、海に、漕ぎ出す。
さあこい、嵐。
方角は、未来。
恐れるものは、何もない。
いつだって冒険者たちが、僕の背中を押してくれる。
今まで出会ってきた人々も、これから出会っていく人々も。
そして僕は約束通り、いつか君と、あの、旅立ちの海岸を思い出すだろう。
わずかな痛みとともに、きっと、あたたかい勇気が心に灯るから。
待ち受ける長く険しい、その旅路の途中で。
君も、この海のどこかで、船に乗っているんだろう?
日差しの強い日には時々、大事そうに持っていたあの、赤いリボンの麦わら帽をかぶって。