クリームソーダ
青空の下で広げる、真っ白なシーツ。少し位置の高い物干し竿に背伸びしてそれを掛けると、太陽の匂いが柔らかく弾けて、私の憂鬱をほんの少しだけ振り払ってくれた。
「本当に、いい天気」
洗濯日和のこんな日は、逃げ出したくなる日常をこうして一瞬だけでも忘れられる気がする。私はうっすらとかいた額の汗をぬぐうと、宙を仰いで思いっきりのびをした。
このままあの入道雲に、私ごと、全部吸い込まれてしまえばいいのに。
今も覚えている、クリームソーダ。夏が来るたび、痛みと、温かさを思い出す、特別な味。あの頃母につれられて飲んだ、美味しいクリームソーダ……。
知らない町にやってくるのは、いつだってドキドキする。母と2人で電車に乗ることなんて滅多にないから、流れる景色を覗くだけでも、ワクワクは加速した。
優しく見つめる母。はしゃぐ、私。
時間はゆったりと流れていたけど、目的の駅に着くまではあっという間にも感じられた。
「さ、いこ」
母に手をひかれてホームに下りると、私は名残惜しそうにオレンジ色の電車に手を振った。
「バイバイ」
私に気付いた車掌さんが、運転席から笑顔で手を振り返してくれる。私も、それを見てとびきりの笑顔になる。ツクツクボウシが短い一生を謳歌でもするように、これでもか、と構内に鳴き声を響き渡らせていたせいもあって、馴染みの無い土地の様子に、鮮やかな彩りが加わった。
駅を出て、すぐ視界に映った町並みの正面には、にわかに活気付いた商店街があった。
母は大き目の茶色のバッグを肩にかけながら、控えめに花柄があしらわれた白い日傘を広げたあと、その様子をじっと眺めていた私に、にっこりと微笑みかけた。
「少し歩いたら、すぐだから」
そう言って、再び私の手を握って歩き出す。
私は母の背中を見つめながら、気だるい午後の日差しに頭がくらくらしてきたのか、少し前から染み出していた感情がそうさせたのか、見渡す風景がどことなく、ぼやけて見え始めていることに気づいた。
木工品やガラス細工が並ぶ、古びた店先。舗装されていない脇道から顔を出す、薄汚れた野良猫。電柱には、色褪せた女性が笑う、キャンペーンポスター。そして視界の遠くに目立つのは、高々と灰色の煙を上げる煙突。
目に映る知らないもの全てが、非現実感に包まれていて、私はなんだか少し恐くなってきてしまった。
とにかく離れ離れにならないように、母の手をぎゅっと握り返したのを覚えている。
商店街を通り抜けると、ひと気の無い路地に差し掛かった。
しばらく歩いているうち、商店街のからの多少の賑わいが、もう聞こえなくなっていることに気づいた。と同時に、今度は遠くから男の子達が、ボール遊びをしてはしゃいでいる声が、かすかに耳に届く。
振り返ってみると、路地に入ってからもう随分前に通り過ぎたかなり遠くの道の脇に、学校の裏門のようなものが視界に入った。だけどうっそうと葉が茂った木がいくつもそびえているばかりで、ところどころが錆びたり歪んだりしている外周のフェンスが木々の隙間から覗いていることくらいしか、校庭の様子はよくわからなかった。
「また、聞こえた」
男の子たちの騒ぎ声は、ごく小さいけども、確かに聞こえてくる。裏門の向こうから聞こえているのだろうけど、もっと遠くの場所から聞こえているような気がした。いや、もしかしたら、もっともっと、ずっと遠くの町から聞こえてきたのかもしれない。
「どうしたの?」
足を止めていた私にしびれを切らした母の言葉で、ブンブンと軽く首を振って素直に踵を返して歩きだすと、それきり、男の子たちの声も聞こえなくなった。
ただ、つないだ母の手のぬくもりが、ただ、白い日傘から透ける美しい日差しが、その時の私にとって、数少ない貴重で確かな現実だった。
もう二度と味わうことが無いかもしれないと思うほどに、寂しくて、儚くて、悲しくて、それでいてどこか心地良いような、不思議な気持ちになったのを覚えている。
しばらく歩いて、ようやく母が足を止め軒下に踏み入ったのは、ステンドグラスのように装飾された綺麗な玄関口が印象的で、少し古いけど、とても本格的な佇まいの喫茶店だった。
ガチャリとドアを開くと、カランカラン、と涼しげな音が耳に響いてきたと思ったとたん、火照った体にヒンヤリとした冷気も心地よく染み込んでくる。
「いらっしゃい」
読んでいた新聞を折りたたみながら立ち上がると、白髪混じりの上髭をたくわえた、品があって柔和そうなマスターが、私たちを出迎えてくれた。
「どうぞ、お好きなところへ」
促されるまま、私と母は入り口に一番近いソファー席に腰をかけた。薄暗い店内とよく効いた冷房は私をようやく落ち着かせてくれて、そのことが、他にお客のいない店内の居心地の良さに拍車をかけた。
「アイスコーヒーと、クリームソーダを1つずつお願いします」
母がそう伝えると、お冷やとおしぼりをテーブルに並べながらマスターは言った。
「はい、かしこまりました。……お嬢ちゃん、よかったらこれ、お食べ」
見ると、お冷やの隣に置かれた小皿に、小さなビスケットやクッキーが盛られていた。
「まぁ、どうもわざわざすみません。ほら、おじさんがこれ、食べていいよって」
母にせかされるようにして、私は恥ずかしくてぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声で、マスターの顔もまっすぐ見れないままお礼を言った。
「ありがとうございます」
そんな私にマスターは、優しい眼差しで笑いかけてくれたのを覚えている。
「賢いお嬢ちゃんですね」
そう言ってから母に丁寧なお辞儀をすると、カウンターに向かって引き返していくマスター。私は、なんとはなしにそれを見送っていた。
突然、首筋がひんやりとしたのでびっくりして振り返ると、母がおしぼりで今度は私の顔の汗をぬぐってくれた。
「冷たいっ」
気持ちよさそうにそう言いながらいたずらっぽく笑うと、今度はおでこをぬぐいながら、母はふふっ、と笑ってくれた。
これが、私の覚えている母の最後の笑顔だった。
「本当に、いい天気」
洗濯日和のこんな日は、逃げ出したくなる日常をこうして一瞬だけでも忘れられる気がする。私はうっすらとかいた額の汗をぬぐうと、宙を仰いで思いっきりのびをした。
このままあの入道雲に、私ごと、全部吸い込まれてしまえばいいのに。
今も覚えている、クリームソーダ。夏が来るたび、痛みと、温かさを思い出す、特別な味。あの頃母につれられて飲んだ、美味しいクリームソーダ……。
知らない町にやってくるのは、いつだってドキドキする。母と2人で電車に乗ることなんて滅多にないから、流れる景色を覗くだけでも、ワクワクは加速した。
優しく見つめる母。はしゃぐ、私。
時間はゆったりと流れていたけど、目的の駅に着くまではあっという間にも感じられた。
「さ、いこ」
母に手をひかれてホームに下りると、私は名残惜しそうにオレンジ色の電車に手を振った。
「バイバイ」
私に気付いた車掌さんが、運転席から笑顔で手を振り返してくれる。私も、それを見てとびきりの笑顔になる。ツクツクボウシが短い一生を謳歌でもするように、これでもか、と構内に鳴き声を響き渡らせていたせいもあって、馴染みの無い土地の様子に、鮮やかな彩りが加わった。
駅を出て、すぐ視界に映った町並みの正面には、にわかに活気付いた商店街があった。
母は大き目の茶色のバッグを肩にかけながら、控えめに花柄があしらわれた白い日傘を広げたあと、その様子をじっと眺めていた私に、にっこりと微笑みかけた。
「少し歩いたら、すぐだから」
そう言って、再び私の手を握って歩き出す。
私は母の背中を見つめながら、気だるい午後の日差しに頭がくらくらしてきたのか、少し前から染み出していた感情がそうさせたのか、見渡す風景がどことなく、ぼやけて見え始めていることに気づいた。
木工品やガラス細工が並ぶ、古びた店先。舗装されていない脇道から顔を出す、薄汚れた野良猫。電柱には、色褪せた女性が笑う、キャンペーンポスター。そして視界の遠くに目立つのは、高々と灰色の煙を上げる煙突。
目に映る知らないもの全てが、非現実感に包まれていて、私はなんだか少し恐くなってきてしまった。
とにかく離れ離れにならないように、母の手をぎゅっと握り返したのを覚えている。
商店街を通り抜けると、ひと気の無い路地に差し掛かった。
しばらく歩いているうち、商店街のからの多少の賑わいが、もう聞こえなくなっていることに気づいた。と同時に、今度は遠くから男の子達が、ボール遊びをしてはしゃいでいる声が、かすかに耳に届く。
振り返ってみると、路地に入ってからもう随分前に通り過ぎたかなり遠くの道の脇に、学校の裏門のようなものが視界に入った。だけどうっそうと葉が茂った木がいくつもそびえているばかりで、ところどころが錆びたり歪んだりしている外周のフェンスが木々の隙間から覗いていることくらいしか、校庭の様子はよくわからなかった。
「また、聞こえた」
男の子たちの騒ぎ声は、ごく小さいけども、確かに聞こえてくる。裏門の向こうから聞こえているのだろうけど、もっと遠くの場所から聞こえているような気がした。いや、もしかしたら、もっともっと、ずっと遠くの町から聞こえてきたのかもしれない。
「どうしたの?」
足を止めていた私にしびれを切らした母の言葉で、ブンブンと軽く首を振って素直に踵を返して歩きだすと、それきり、男の子たちの声も聞こえなくなった。
ただ、つないだ母の手のぬくもりが、ただ、白い日傘から透ける美しい日差しが、その時の私にとって、数少ない貴重で確かな現実だった。
もう二度と味わうことが無いかもしれないと思うほどに、寂しくて、儚くて、悲しくて、それでいてどこか心地良いような、不思議な気持ちになったのを覚えている。
しばらく歩いて、ようやく母が足を止め軒下に踏み入ったのは、ステンドグラスのように装飾された綺麗な玄関口が印象的で、少し古いけど、とても本格的な佇まいの喫茶店だった。
ガチャリとドアを開くと、カランカラン、と涼しげな音が耳に響いてきたと思ったとたん、火照った体にヒンヤリとした冷気も心地よく染み込んでくる。
「いらっしゃい」
読んでいた新聞を折りたたみながら立ち上がると、白髪混じりの上髭をたくわえた、品があって柔和そうなマスターが、私たちを出迎えてくれた。
「どうぞ、お好きなところへ」
促されるまま、私と母は入り口に一番近いソファー席に腰をかけた。薄暗い店内とよく効いた冷房は私をようやく落ち着かせてくれて、そのことが、他にお客のいない店内の居心地の良さに拍車をかけた。
「アイスコーヒーと、クリームソーダを1つずつお願いします」
母がそう伝えると、お冷やとおしぼりをテーブルに並べながらマスターは言った。
「はい、かしこまりました。……お嬢ちゃん、よかったらこれ、お食べ」
見ると、お冷やの隣に置かれた小皿に、小さなビスケットやクッキーが盛られていた。
「まぁ、どうもわざわざすみません。ほら、おじさんがこれ、食べていいよって」
母にせかされるようにして、私は恥ずかしくてぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声で、マスターの顔もまっすぐ見れないままお礼を言った。
「ありがとうございます」
そんな私にマスターは、優しい眼差しで笑いかけてくれたのを覚えている。
「賢いお嬢ちゃんですね」
そう言ってから母に丁寧なお辞儀をすると、カウンターに向かって引き返していくマスター。私は、なんとはなしにそれを見送っていた。
突然、首筋がひんやりとしたのでびっくりして振り返ると、母がおしぼりで今度は私の顔の汗をぬぐってくれた。
「冷たいっ」
気持ちよさそうにそう言いながらいたずらっぽく笑うと、今度はおでこをぬぐいながら、母はふふっ、と笑ってくれた。
これが、私の覚えている母の最後の笑顔だった。