はじっこに、歌を
強い風が吹いた。
膝に置いたスケッチブックがページをぱらぱらと翻し、今まで描いてきたスケッチを私の目に順番にすごい速さで映していく。走馬灯みたいだ。
美術室で描いたリンゴ。裏庭に生えている植物。細くても貫禄のある木。通り過ぎていくうちに、人の後ろ姿がどんどん出てくる。
一之瀬の後ろ姿。横顔や正面から見た絵もあった。想像して描いたんだっけ。向かい合わない私が描ける角度には限りがあるというのに、飽きることなく同じ人間だけを描いてきた今までを、スケッチブックは黙って示した。
「砂場をずっと掘り続ければ、いつかブラジルに行けると思うよ。だって、地球は丸いんだから」
一之瀬は、固く握っていた両手をほどいた。指をぴんと伸ばしたあとに、私たちは目が合った。
一之瀬が、振り向いたのだ。
「ほんとに、行けると思いますか」
「思うよ」
「地球の反対側に行けるってことは、世界で一番離れてる場所がぐっと近くなるってことですよね」
「そういうことになるね」
「じゃあ、ブラジルより近い場所なんて、離れてることになりませんよね」
私も一之瀬も、お互いに目を逸らさなかった。
だから、一之瀬の目じりに溜まった涙がもうすぐ勢いをつけて滑りだしていきそうなのがわかった。
「先輩が転校しちゃっても、そんなの、たいした距離じゃないですよね」
転校、という言葉が、一之瀬を揺らしているように見えた。
風に煽られても、一人で集団を追い出されたときも揺るがなかった一之瀬の芯がわなないている。
今一之瀬が何か言ったら、声は情けなく震えるだろうし、掠れるだろう。お腹に力がまるで入っていない。重心がブレている。合唱部の名前が泣くというものだ。
でも、私なら、いいかな。
私は美術部だし、声がいくら水を含んでいても、体が情けないほど震えても、関係ない。
この目さえ開いて一之瀬を見ていれば。
耳をすませて一之瀬の声を聞いていれば。
ただ一之瀬という歌い手を見失わなければ、それでいい。
だから、私は言った。
「転校する前に、聞かせてよ。ビリーブの2番」
一之瀬は鼻をすすった後、ぶっきらぼうな口調で言う。
「私、2番は歌いたくないです」
「なんで?1番は歌ったのに」
「1番はいいんです。私の勝手な宣言、ですから。でも、2番は」
一之瀬は言葉を詰まらせる。でも、言いたいことはなんとなくわかった。
ビリーブの1番は、相手を励ます歌詞だ。
『たとえば君が傷ついてくじけそうになったときは、必ずぼくが傍にいて支えてあげるよ、その肩を』
一之瀬なりの、別れの言葉だったのだろう。
2番に入ると、今度は意味が変わる。
『もしも誰かが君の傍で泣きだしそうになったときは、黙って腕を取りながら、一緒に歩いてくれるよね』
一之瀬が2番を歌うということは、私からも1歩踏み出すことを要求するということだ。
自分のために相手を動かそうとすることだ。
「歌ってよ、2番。私は一之瀬から聞きたい」
一之瀬は、きっと知らない。
私の世界はいつもはじっこで、寒くて、一人ぼっちで、でもそういうものだと思っていたことを。
一之瀬の必死な言葉が、芯の入った姿勢が、等身大の歌声が、それを変えたことを。
地球は丸い。
はじっこのない世界は、いつも私を真ん中の、日だまりのような暖かさを与えてくれ続けてくれた。
私に、一之瀬と同じことが出来るだろうか。
一之瀬の強さが私を変えてくれたように、今度は私が一之瀬に何かを返したい。
一之瀬が歩み寄ってほしいと伝えてくれれば、私はきっと、ちゃんと踏み出せる。
「一つ、聞いていいですか」
一之瀬が口を開く。