はじっこに、歌を
「私の歌、上手くなりましたか?」
つぶやくような一之瀬の声に、私は目を開ける。
「歌、まだ途中なんじゃないの?」
「わかるんですか?」
「小学生のときに習ったやつだし。一番だけで終わられれば、さすがに短いし、変だなって思うよ」
一之瀬の選んだ曲は、小学生の頃に誰もが歌ったであろう「ビリーブ」だった。
音楽の授業ではいろんな曲を習ったけど、この歌は今でも歌詞が鮮明に浮かぶ。好きだったのだ。
「私、この曲の2番、けっこう好きなんだけどな」
私の催促に、それでも一之瀬は応じなかった。
背筋の伸びた姿勢は、さっきから屈み気味になっているし、両手も固く握られている。なんだか、一之瀬らしくない。
「私の歌、上手くなりましたか」
さっきよりも大きくなった声は少しだけ震えていた。
初めて私に声をかけてきたときのことを思い出す。
「会った頃のあんたの歌は、ホント、ひどかった」
びくりと震える一之瀬の背を眺めながら、私は1年前から今日までの日々を思い出す。
「合唱部のメンツに、声が小さいからって理由で、音楽室から追い出されたんだっけ?事情を聞いたときはなんだそりゃって感じだったけど、聞いてみたら納得。よくあんな小さい声で歌をやろうって思えたもんだよ。かえって感心しちゃったくらい」
図星を突かれた一之瀬はますます小さくなっていく。
今から1年前、全体練習から外され、一人だけ発声練習を課せられた一之瀬は練習場所を探してここに行き着いた、らしい。
声が小さいからといって、一人だけ練習場所から追い出すのはフェアじゃないような気は、今でもしている。
でも、一人で外に居場所を探しに出てきたのは私も同じだったから、一之瀬の事情に口を出したことはなかった。
ここで歌っていいですか。
一之瀬のこの言葉には「プライド」とか「羞恥心」なんて単語が欠片もなくて、だからこそとても脆かった。私がもしあの場で鼻で笑ったり怪訝な顔をしたら、一之瀬という人間が音を立てて割れてしまうような気さえした。
一人ぼっちの人間って、どうしてみんなこんなに肩身が狭そうなんだろう。
似た者同士、という言葉が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
ここに辿りついた理由は似たようなものでも、私と一之瀬では決定的に違うものがあって、だからこそ私は一之瀬をここから追い出すこともなく、私自身が出ていくこともなく、一人だけの世界を少しだけ変えた。
「発声練習ってさぁ、声が小さいとすっごいかっこ悪いんだよね。あんたの声って小さいし、腹から出てないからちょっと音上がるとすぐに掠れるし、たしかにひどかったね。うん」
邪魔はしませんから、という宣言どおり、一之瀬はスケッチをする私から出来るだけ離れたところで一人発声練習をした。
ここに来たばかりの頃の一之瀬は、基礎が出来ていないのか、歌を練習することはなく、ひたすら「あ、え、い、う、え、お、あっおー」を必死に繰り返していた。
私はスケッチをしながら、そのひたすらに不格好で、そして真摯な声を聞いていた。
「あのままずっと発声練習しかやらないまま部活やめて、ここからいなくなっちゃうんじゃないかって、思った」
嘘をついた。
一之瀬が部活をやめるなんて、出会った瞬間から一度も思ったことはない。
一之瀬は木に似ている。強い風に枝を揺らしても、決して足場を失わない根強さが、姿勢にちゃんと現れてる。
それこそが、一之瀬にあって、私にないものだ。
やめてしまうと私が思い続けてきたのは、他ならない自分自身だ。
一人だと不安で、一人でいる自分を誰にも見られたくなくて逃げ場を探す私の居場所は、結局誰の目にも入らない、はじっこ。
ずっとそう思っていた。一之瀬に会うまでは。
「やめなくてよかった。一之瀬の歌をここで聞けてよかった」