はじっこに、歌を
美術部の私と合唱部の一之瀬には学年が違うこともあって接点なんてあるはずもなかったけど、結果として私たちはここで出会った。辿りついた、と言う方が正しいのかもしれない。
人間にはふさわしい居場所というものがあるのだとつくづく思う。
自分で目指して向かうにしろ、周囲に促されていつの間にか行き着いてしまうにしろ、結局は妥当な場所に落ち着く。
記念写真を撮るとき、真っ先にフレームの中心に寄って行ける人、自然とカメラを向けられる人、隣にいる人と手を取り合って笑顔になれる人は、自分の居場所を勝ち取ることが出来る人だ。
それが出来ない人間ほど、端の方で出来そこないの笑顔を浮かべて映る。
ピースしてみようかな?でも私って、そもそも映ってるのかな?自意識過剰だったりして。誰も手を取ってくれないからわからない。
私って、ちゃんといることになってんの?
現像された写真には、ピースサインになりきれなかった私の右手が小さく映っていた。中途半端に折られた指のせいで、何かを掴もうと手を伸ばしているように見えなくもなかった。
つまり、私はそういう人間だ。
絵を描くというよりはおしゃべりの場となっている美術室で黙ってデッサンをするだけの私は浮いてしまって、誰に言われるでもなく外に居場所を探した。
部活の時間に宛てられている放課後の学校というのは、どこに行っても人の気配がして落ち着かなくて、自然と足は人気のない場所へと向かった。
設計のミスなのか、もとは何かの用途があったのかは知らないけど、今はまったく使われていないスペースである裏庭に辿りついたとき、どうしてかはわからないけど、私はそこから離れたくなくなってしまった。
学校の片隅の、あってもなくても支障のない場所。ある日突然この場所がなくなったとして、気付く人はきっといない。
私にぴったりじゃないか。
そう思ったら、力の抜けるような安心感と、わけのわからないさびしさが同時に湧いてきて、そこから動けなくなってしまったのだ。
座って、ときどき思い出したように吹いてくる風を浴びながら無心になってスケッチするのが日課になった。
名前のわからない木が何本か植えられている以外は、どこにでもあるような雑草が生えているここなら、とりあえずデッサンの対象はたくさんあるし、日の傾きと共に陰影を変えていく植物と向き合うのはそれなりに楽しかったから、何も困ることはない。
一之瀬がやって来たのは、そのちょうど1年後だ。
うろうろと視線を彷徨わせながら、小さい歩幅で私の前を行ったり来たりする下級生を不審に思って、それでも声をかけなかったことは覚えている。
縄張りに侵入された、という意識がなかったといえば嘘になるだろう。すでに裏庭は、私一人のためだけの世界になっていたのだから。
風の強い日だった。
デッサンの対象として選んだ木は上の方ほど大げさに枝を揺らしていたけど、幹の方は安定していた。デッサンは自分の感覚をすべて注ぐことだから、今でも鮮明にそのときの光景は浮かぶ。
スケッチブックに影が出来て、顔を上げたとき、私はいったいどんな顔をしていたんだろう。
その頃は名前も知らなかった一之瀬が、唇を震わせ、今にも泣きそうな顔で立っていた。
「ここで、歌って、いいですか」
両手はスカートの裾を強く握りしめ、風に煽られた髪が頼りなくどこかに流されていきそうだった。
そのくせ足はしっかり踏ん張っていて、一本線が入ったみたいに真っ直ぐに背筋は伸びている。
ついさっきまで描いていた木のことが、頭から離れた。
いや、上書きされたというのが正直な感覚だ。
私が魅入った木によく似ている一之瀬の姿勢を、ただきれいだと思った。