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てっしゅう
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novelistID. 29231
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哀の川 第一章 始まり

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唇を離して麻子はソファーに座るように手を引っ張った。隣り合わせに座り、左手を直樹の腿に置いて、自分の頭を肩につけるようなもたれ方をして、右手で優しく髪を撫でてくれた。ドキドキするような感覚は無く、母親に接するような安らかな感じを抱いた。

「ねえ、直樹さん。ここに来たのは、あなたに抱かれたいからじゃないのよ。ゆっくりと話が出来るかなって思ったから。これからずっとご一緒したいと思っているから、内緒はいや。私も力になって欲しいから、あなたの力にもなりたいの。何があったの?」
「その気持ちは嬉しいよ。ボクは麻子さんの力になれるのかなあ・・・どう考えても、ご主人には全て敵わないって思うし・・・」
「またそれ?主人を見たことも話した事も無いのに。年齢が少し上で、事業が順調って言うだけでもう降参?私はお金欲しそうな女に見えてるのね?気まぐれに男遊びするような軽薄な人妻ってイメージなの?だったら、もう何も話さなくて構わないわよ・・・人違いしたってあきらめるから」

麻子は直樹への思いがこんなに強くなっていることに自身驚いた。ここへ入ったことも、こんなに強く自分の気持ちを伝えていることも普通ではない自分がいたからだろう。

「麻子さんを初めて見たときなんて綺麗で素敵な女性だろうって、その想いだけで近づいてしまった。僕はあの時今と同じやけを起こす手前の心境だった。苦しさから逃れるために女性に声かけようって、下心むき出しの自分がいた。今は違うよ。麻子さんが人妻だって判った時、諦めようって考えたけど、こんなボクを誘ってくれた気持ちが嬉しかった。天にも昇るような気持ちになっていた。でも・・・自信が無いんだ!変な事に手を出してもうどうにもならないところまで来てしまったから・・・ごめんなさい、許してください、最低なんです・・・」

また、しゃくりあげるように鼻をすすり、嗚咽を漏らした。直樹は考えれば考えるほど惨めな気持ちが襲い掛かり自分をダメにしていた。何のために借金をしてここまで自分が苦しむのだろうか、そのはっきりとした理由がつかめないまま、気がつけば返済不能な金額になっていたのだ。もう麻子の顔をまともには見られない。少し自分の気持ちが収まるのを待って、うつむきながら続けた。

「何も考えずにお金を借りて遊んでいたら、返せなくなってしまった。会社まで貸金業者が来るようになって・・・もうダメなんだ。会社にばれたらクビになるに決まっている。社長は無借金を自慢している人だから。世間体も悪いし、僕なんかのことが知れてしまったらね」
「そうだったの・・・あなたが自分の責任でやってしまったことだから、良く考えて返す方法を見つけないとね。私が出来ることといったら、そうね、知り合いの弁護士さん紹介してあげるから、相談してみたら。費用は私が払って置くから心配しないで、そのぐらいはさせて。二人で解決してゆきましょう!ね?頑張れる?」

麻子は直樹の連絡先として勤め先を聞いた。自宅には電話が無かったからだ。

「ありがとう・・・詳しくはわからないけど、麻子さんが応援してくれるだけで心強いよ。ボクには友人が少ないから、一人で悩んでいた。実家の両親は年金で細々暮らしているから頼れないし。本当に僕にとって素晴らしい出逢いだったよ。ボクなんかでいいのかなあ?麻子さんを幸せに出来るのかなあ・・・」
「少し楽になったようね。あなたらしく振舞ってね。私は何度も言うけど直樹さんに恋する資格は世間では、無いのよ。でも、出逢ってしまったから、戻れないの。好きになってしまったから、それでいいの。離婚して再婚なんてあなたに要求しないわよ」

麻子は直樹の立ち直った様子に安心していた。そして次に男の本能をむき出しにして来そうな気配も感じ取っていた。少し制するように、身体を離し、間合いを取った。

「今日はしないよ。ごめんなさいね。もうすぐ息子が帰ってくるから、家にいなきゃならないし。この次に・・・ね、我慢して」
「ええっ・・・そうなの、こんなに元気になっているのに」そう言って、股間を押さえた。
「直樹さん、やめてそんな下品な事するの。嫌いになるわよ。身体だけの付き合いは、しないって言ったでしょ!ねえ?私のこと本当に好き?おばさんだから、可哀想なんて思っていない?」
「なにそれ?ボクが好きになったんだよ。そんなはずないじゃないの。若くて綺麗だよ、キミは・・・本当だよ」
「ありがとう、信じるわ。今日はゴメンね。もう行かなくっちゃ・・・息子には寂しい思いをさせたくないからね。そのことはあなたにも解ってもらいたいの。私には子供が居るって事・・・あなたにも子供が出来れば解るよ、その事だけは変えられないって気持ちが」

思い直して直樹は麻子とホテルを出た。車は来た道を引き返して、首都高速から渋谷に降りて、山手線の渋谷駅で直樹を降ろした。次に逢うのは、第三日曜日のダンスレッスン。またね、と手を振って麻子の車は去っていった。直樹は山手線高田馬場で降り、密集する学生用のアパートが建ち並ぶ自宅へと帰っていった。

翌日目白にある会社へ出社した。昨日のずる休みは一応体調不良という事で済ませていた。会社の入り口のドアをいつものように開けてタイムカードの場所へ歩いていた直樹に専務の社長の妻が声をかけた。

「斉藤さん、おはようございます。体調は戻ったの?」
「はい、ありがとうございます。今は大丈夫です」
「ところでね、朝電話があって、この方が至急電話連絡したいからお願いしてください、と言われたのよ。仕事に就く前にかけてあげて」
「あっ、はい、わかりました・・・」

嫌な予感がして、専務から渡されたメモを見た。そこに書かれてあった名前と電話番号は初めて見るものだった。「大橋順一」「電話03-・・・」会社の電話は気を遣うので、外の公衆電話に向かった。コインを入れてダイヤルをプッシュする。すぐに相手が出た。

「はい、大橋法律事務所です」
「斉藤といいます。順一様はお見えでしょうか?」
「少々お待ちくださいませ。斉藤様でございますね」
電話の声が変わった。

「斉藤さん、おはようございます。お電話していただき申し訳ありませんでした。麻子さんからご紹介いただいた、弁護士の大橋です。詳しくは会ってご相談させていただきますので、ご都合お聞きしたいのですが・・・夜でも構いませんので、本日いかがでしょう?」
「そうでしたか、会社は6時には終わりますが、どちらまで伺えばよろしいですか?」
「渋谷ですので、じゃあ、7時に私どもの事務所までお越しいただけますか?場所はNHKの手前を左に入ったすぐです」

詳しく説明して、直樹は約束した。麻子はすぐに手配をしてくれていたのだ。ありがたい・・・これで何とか抜け出せる、そう思えてきた。

定時に仕事を終え、直樹は約束の法律事務所へと急いでいた。渋谷は夕刻のラッシュで大変な混雑をしていた。押し出されるようにホームに下りて、ハチ公口から公園通りを上り、言われた道を左に入って、すぐに看板を見つけた。今一度「大橋」という名前を確認して、二階にある事務所のドアを開けた。

「お約束しておりました、斉藤といいます。大橋順一様はお見えでしょうか?」