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てっしゅう
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novelistID. 29231
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哀の川 第一章 始まり

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「そうなの。うちは夫がコンサルティングやっていて、株と不動産で稼いでいるわ。元々は中小企業診断士だったのよ。結婚した当初は仲良く出かけたり、子供と旅行したりしていたんだけど、いつしか株と不動産取引を始めて、このブームに乗って財を成したの。より幸せになると考えて応援してきたけど、10歳になる息子は一人っ子だし、パパと遊んで貰えないから、孤独に感じている。母親の出来ることなんて、男の子は今が限界・・・学校でも友達に恵まれていないからすぐに帰ってきて、家で遊んでる。祖父や祖母は父親の味方だしね・・・近くに住んでいる実の姉だけが心休まる相手かな・・・ごめんね、こんな話して。愚痴っちゃったみたいね。一時のアバンチュールを楽しもうって思っているんじゃないからね。直樹さんのこと気に入って、また逢って欲しいと本当に思っているからね」

さっきからつなぎ始めた手に力が入っていた。直樹には長い間彼女が居なかった。もうそれこそ学生時代以来になる、こんなことをしている自分は。次に逢ったら、もう最後までいってしまいそうな予感さえする。さらに鼓動が高ぶり、あらぬことを想像するようになった。まるで、見透かすように、麻子は「次はもっとゆっくり時間とってね」と囁いた。


ある朝、通勤途中で一人の男性に呼び止められた。男はすっと近づいてきて行く手を遮るような形で、正面にいた。

「斉藤直樹さんですね?」
「はい、そうですが・・・どちらの方でしょうか?」
男は名刺を出した。

「お解かりいただけると思いますが、こんな時間に失礼とは思いましたが、ご連絡をいただけないので、まかり越しました」
名刺には、直樹が借りている貸金業者の名前と担当者の氏名が書かれてあった。

「あ・・・はい、わかりました」
「もう二ヵ月ご入金頂けていません。三ヶ月を越えると私どもの扱いから、他の業者へと債権を譲渡する形になってしまいます。渡った先の業者によっては、とても厳しい取立てが行なわれるとも聞きます。そのようなことにならないように、今月必ず一月分でもお支払い頂けるように頼みますよ」
「・・・今月ですか・・・他の業者に払う約束をしてあるので、あなたの所には無理かと・・・来月には必ず納めますから、猶予頂けませんか?」
「無理ですね。そんなこと何度も聞いていますし、今のお言葉を信用する事は出来ませんよ。会社としては、今言った事が全てです」

そう言って会釈をすると、そのまま過ぎ去っていった。残された直樹は、絶望感に苛まれ、今日は仕事をする気にならなくなっていた。足が会社を通り越し、渋谷のある場所に向いていた。

麻子は夫のいない間朝は子供を送り出すと、ご近所さんと一緒に近くのカフェでモーニングをしている。話はもっぱら子供の話題。有名私立中学へ入れるだの、中高一貫教育がいいだの、自立させるためにも公立がいいだのそれぞれの価値観と経済状況に麻子も溶け込んで話していた。

「ねえねえ、麻子さん、ご主人って今度はどちらに行かれていますの?」
「ええ、アメリカって言ってましたけど・・・」
「また不動産お買いになるのかしら?」
「さあ、そのような話はしていましたけど、あまり詳しくは聞いていませんわ」
「羨ましいですわ。うちなんか海外へ出張しても土産も買ってこないし、音沙汰も無い・・・誰かいいお相手が居るんじゃないかと、疑ってしまいますわ!」

この会話には麻子は素直にそれは無いでしょう!と言ってあげれなかった。自分には夫の目的が他にもあることを気付いていたからだ。そんな会話が弾んで笑いながら、外を見ると見知った男性が通り過ぎてゆく・・・「直樹!さん?なんで・・・」そうはっきりと見えた麻子は、
「ごめんなさい。用事があるから先に行きますね」とお金を置いて、外に飛び出していった。

後から追いついて声をかけた。
「直樹さん、どうしたの?」振り返った直樹の表情は暗く、悲しく、よどんでいた。

「麻子さん!どこから来たんですか?」
「そこの喫茶店にいたの。外を見たら直樹さんが歩いていたから、ビックリして飛び出してきたのよ!どうしたの?仕事は?」
「うん、今朝嫌な事があって、仕事に行けなくなっちゃったよ。気がついたらここを歩いていた。無性に麻子さんに逢いたくなって・・・ボクはやっぱりダメな男だ!こんな事をしているなんて・・・」
「直樹さん、いいのよ。男だって辛い時はあるから、そんな時は我慢せずに私でよければ話して。力になれないかも知れないけど、話すことで気持ちが落ち着くことってあるから。車出してくるから、少しドライブしましょう。落ち着いたらお話して、・・・ね?」
「うん・・・ありがとう」

麻子はガレージから車を出して、直樹の待っている歩道に寄せた。ドアを開き助手席に座ったその顔はうつろに前を見つめているように感じられた。首都高速に入って、車を横浜方面に走らせていた。カーステレオからはユーミンの爽やかな歌声が流れていた。

「ねえ、直樹さん。何があったのか教えてくれないの?」
「・・・嫌いになるから言わないでおくよ。人は知らないほうがいい、って場合があるからね。麻子さんに嫌われたくないし」
「そんな事を言う直樹さんは、嫌いよ!夫と変わらないじゃないの!」
「ご主人に叶うわけないよ!一緒にしないで・・・ボクなんか最低でいいんだ!麻子さんには絶対にふさわしくない」
「私の事好きじゃないの?言った事は嘘?あなたのこと好きになった私は、私の気持ちは、どうでもいいのね?資格がないのは私のほうよ、夫が居るのに誘っているんだから。でも、それだけ真剣なのよ、気持ちは、直樹さんへの気持ちは、誰にも負けないぐらい強いの。私の何があなたに負担なの?」

直樹は自分を悔いた。金が無いという事は実に情けない。人の気持ちをこんなに貧しく貶めてしまうのだから。麻子の純真な気持ちが痛いぐらいに伝わる。そして、その気持ちに応えられない自分が尚一層惨めに感じられて、涙が出てきた。

「直樹・・・さん、泣かないで。悲しいのは私のほうよ・・・男でしょ?しっかりしなきゃ。あなたのことずっと好きで居させて、お願いだから・・・」
麻子の右手は直樹の左手をしっかりと握っていた。

車は高速を降り、インターの近くにあるホテルへと入っていった。麻子は直樹の話をゆっくりと聞けると判断してそこを選んだ。もちろん、それ以外の目的が無いわけではない。しかし、今は自分が話を聴いて何が出来るのか、その方が気持ちを優先させていた。
直樹に拒む理由は無い。麻子の横顔をチラッと見て、これから起こり得る快楽の時間より、麻子にどう話そうかと頭の中は支配されていた。

車がガレージに入り、シャッターが自動で下りた。外に出た二人は入り口の扉を開けて、二人だけの個室へと誘い込まれた。繋いでいた手を麻子は放し、直樹の正面に廻った。首筋に両腕を回しキスをせがんだ。落ち着かない様子で直樹は唇を合わせた。柔らかく湿っぽいその感触に安心感のような気持ちが伝わってきた。大人の女だ・・・そう感じた。