Slow Luv Op.2
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模範演奏を含む一連の予定が終了したのは、午後四時半を回っていた。大学側は更に一席設ける算段をしていたのだが、さく也は承諾しなかった。
「疲れたから」
思いのほか長くなった拘束時間を考えると――立ち会わなくてもいい、ピアノの調律から居たので――、誰も無理強いは出来ない。残念がる人々は悦嗣に取り成しを頼んだ。しかし自身も疲れていた悦嗣は、「断っていいんだな」と確認するだけに留めた。
気恥ずかしいくらいの見送りを受けて、悦嗣の車は大学を後にした。
冬の薄暮は通り過ぎるのが早い。大学を出てどれだけもたたないうちに、辺りはすっかり暗くなった。葉の落ちた街路樹のシルエットが寒々しい。
疲れを理由に帰途についたが、車はさく也の泊まるホテルには直行せずに、市街地に入って食事をした。二人とも、愛想をこれ以上使う気になれなかっただけ、つまり大勢と食事をする気になれなかっただけだったので。
それからどこに行くとも決めず、車を走らせている。
「時間取って悪かったな。学生アンサンブルまで聴かせて、大学側も遠慮ってものが無え」
「一日空けてたから、気にしてない。音楽を聴くのは嫌いじゃないし」
聴くことは嫌いではないだろうが、さく也は学生アンサンブルの演奏に、感想らしい感想は述べなかった。
三回生で構成されたアンサンブルの演奏は、可も無く不可も無く…と言ったところ。中原さく也の演奏の後では、聴き劣りするのは仕方のないことだった。それは本人達も自覚しているらしく、妙な緊張感がある。そして聴く側の学生達と、その師匠達にも伝染していた。悦嗣もまた、その一人だった。緊張感を引き出した張本人のさく也は、いつもの調子で演奏を聴いていた。
ヨーロッパの音の中に常日頃いる彼の耳に、学生の音はどう聴こえていたのだろう。音が下がっても、演奏が微妙にズレても、表情に何の変化も見えなかった。その様子が新たな緊張を呼んでいた。
終わった後で感想を聞かれての「楽しめました」は、素っ気ない一言で、さく也のアドバイスを欲しがっていた学生達は、沈黙せざるを得なかった。
「本当に楽しめたんだから、ちゃんと感想だと思うけど」
その時の周りの反応を思い出したのか、さく也が呟く。食事中に摂ったアルコールが、彼の口を滑らかにしていた。たったコップ二杯のビールで、あきらかに口数は三倍になった。悦嗣は彼を車で送るつもりだったので、唇を湿らせただけで飲まなかった。
「曲がりなりにも音楽学部だから、もっと踏み込んだ言葉が欲しいんだよ」
「そう言うのは苦手なんだ。俺自身、勉強中なんだから。俺の演奏に対しての感想が欲しいくらいだ」
「意外だな。関心なさそうなのに」
「人並みだよ、俺」
さく也は明日、ウィーンに帰る。何回か演奏会を聴きに行ったことは聞いたが、その他に何かをしたという話はなかった。ずっと海外生活であるとはいえ、「東京近辺は地元」と話していたところをみると、観光をするほど馴染みがないわけではなさそうだった。もしかしたら予定があったのかも知れない。しかし余計な模範演奏会などが入ったものだから、多少は変更したこともあるだろう。
「別に予定を変更したりしなかったけど」
クリスマスを控えて、とりどりのイリュミネ―ションで飾られた街を抜け、車は湾岸線に入っていた。
「もともと観光が目的じゃなかったし」
「じゃあ、なんでこの時期に? クリスマスなら向こうが本場だろう? 飛行機代だって、一番高い時だし」
「最初の三年は試用期間なんだ。休暇は自由に決められなくなる。それに」
ライトアップされた橋を珍しげに見ていたさく也は、悦嗣に向き直った。
「会いたかったから」
すっかり忘れていたことを、その一言で悦嗣は思い出した。
半年前に示された、さく也の想いの一片。
この数日はまったく感じなかった。目の前にいた彼は、ヴァイオリニストとしてのさく也であったし。
「…わざわざ?」
まぬけな質問だ。自分のことがまぬけに思えたのはこれで二度目。一度目は英介の結婚披露宴で、彼への気持ちを自覚した時だった。
「わざわざ」
さく也は微笑んで答えた。
「だから目的はちゃんと果した。一緒に弾けたし。最初の練習の時にヴォカリーズが遅くなったのは」
言葉が途切れて、フイッと窓の外に目を戻した。
「…弾き終わりたくなかったから」
声音は少し下がったが、聞こえないほどではない。
悦嗣は頬が熱くなる感覚を覚えた。車外を見るさく也の表情はわからない。しかし自分はあきらかに赤面していることがわかった。
会話が途切れるバツの悪さを取り繕うために、悦嗣は話を継いだ。
「俺は引き摺られて大変だった。楽しむ余裕なんかなかったさ。思えば、中原さく也の音をじっくり聴いたことがないな、弾くのに精一杯で。気を抜いたら、指が止まりそうになる。おまえと演る時は、真剣勝負みたいなもんだ」
「俺の演奏を聴きたいのか?」
振り返らずにさく也が言った。声の調子は戻っている。
「聴きたいね。だから一曲は無伴奏を入れて欲しかった」
「どこか、車を止められる? 道路傍じゃなく、少しは静かなところがいいけど」
「えっと…」
「あそこは出口じゃないのか?」
さく也が指差す前方に、ジャンクションを示す標識が見えた。悦嗣は促されるまま左の車線に入った。
作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい