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Slow Luv Op.2

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 曲の始まりから終わりまで、痛いくらいの静寂が部屋を支配していた。
 模範演奏の会場として用意された大講義室には、定員の倍以上の人間が入っていたのだが、その存在をまるで感じさせない。皆が皆、呼吸さえも忘れている――一曲目の『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』が終わって何のリアクションもない『会場』を、悦嗣はちらりと見回した。割れるような拍手が沸き起こったのは、残響と演奏の余韻が、完全に消え失せた瞬間だった。
 使用された講義室は、サロン・コンサートを考えて設計されていた。拍手は渦となって響き渡り、その経験のない迫力に、悦嗣は気圧される。
 さく也はというと、拍手が鳴り止むのを弦を調整しながら待っていた。応えることなく。こういったことは慣れているのかも知れない。
 拍手はなかなか止まなかったが、さく也はそれを無視して悦嗣にAを要求した。彼がチューニングを始めると、ようやく周りは静かになった。
 悦嗣は指先に息を吹きかける。曲の間、忘れていた緊張が戻ってきた。しかしそれは懐かしい心地よさを含んでいた。
 中原さく也の音は、好奇心に満ち溢れた幾百の耳を一蹴する。感想などの差し挟む余地を与えない。それほど影響力のある音色を、彼の弓は紡ぎだした。
 アンサンブルの時とは格段に違う。これが彼本来の音なのか?
――引き摺られる…
 指先の冷たさが、辛うじて悦嗣のピアニストとしての器量を保っていた。あの時のように、『楽』に取り込まれて『正気』を失うわけにはいかない。無伴奏曲ではない以上、今、このヴァイオリンと音楽を作っているのは、自分のピアノだけなのだ。引き摺られて、その役割を放棄することは許されなかった。
 対等ではありえない、しかし負けられない。
 演奏中、一度合ったさく也の目は、冴えていた。



 模範演奏が終わって、休憩。その後は、学生アンサンブルの演奏である。聴くだけでも聴いてやってほしいという、大学側の要請だった。
 休憩の間、さく也は学生や教授連に取り囲まれていた。さく也の冷たい印象から二の足を踏んでいた彼らも、演奏を聴いてしまってからは、もう我慢することが出来なかったらしい。
 悦嗣はその様子を階段状の一番後ろの席で、面白そうに見ていた。こればかりは助けられない。さく也は懇意でも困惑でもない表情で、輪の中心に座っている。あまり口の開閉が見られないので、ほとんど会話が成立していないことがわかった。
 悦嗣の隣の席に、
「お疲れさん」
と立浪教授が座った。悦嗣は「どーも」と軽く頭を下げた。
 いつもなら軽口で何やら話し掛けてくる教授が、黙ったままで悦嗣同様、さく也を見ていた。
「加納は」
 暫くの沈黙の後、彼が言った。
「いくつになったんだ?」
 悦嗣は前を向いたままで「三十一」と答える。
「おまえは…なんて時間を無駄にしたんだ」
 口惜しげな声のトーンに、教授の方に顔を向けた。
「曽和が言っていた。加納は自分の才能を信じていないって。私はそこまでおまえを評価してなかったけど、半年前の演奏を聴いて、曽和の言ったことがわかった気がしたよ。今日の演奏は、それ以上だ。在学中から、せめて五年前からでも本腰入れていたら、三大タイトルの一つも夢じゃなかったのに」
 悦嗣は頬杖をついて、またさく也の様子に目を向ける。
「才能には不可欠な要素が、二つ要ると思ってるんです」
 教授の言葉を受けるように、悦嗣が言う。
「努力と度胸がそれ。俺にもし才能ってものがあるとしても、努力と度胸が伴わないかぎり、無いのと同じさ」
 昔から練習は嫌いだった。練習しなくてもそこそこ弾けたので尚更だ。練習不足は人前での緊張に拍車をかける。それを知りながらステージに立つ度胸は、悦嗣にはなかったのだ。
「おまえは馬鹿だ。それがわかっていながら…」
 楽しく弾ければ良かった。コンサートやコンクールで弾く事だけが、ピアニストのすべてだとは思わなかった。緊張感も気負いもなく、好きな曲を好きな時間に弾く。それでいいと思っていた。
「あの頃は、それを乗り越える原動力がなかったからな」
 顎から手を外し、大きく伸びをする。
「先生、俺、実は少し後悔してるんです。もっと真剣にピアノと向き合えばよかったって。コンクールとかなんとか関係ない。ただあいつの音に相応しいものでありたかった」
 辟易したさく也が、階段を悦嗣に向って上ってくるのが見えた。先ほどまで二人が演奏していた壇上は、アンサンブルの準備が始まっているから、やっと解放されたらしい。
「あいつの音が…中原さく也の音が俺に後悔させるんだ」
「後悔しているなら、今から取り戻せよ」
 悦嗣はさく也の姿を見ながら答える。
「さっき先生も言ったじゃないか、『せめて五年前から』って」
 教授は目を見開いた。
 さく也が目の前まで来た時、悦嗣は立ち上がった。ポケットから煙草を取り出す。休憩時間は五分ほど残っていた。一本くらいはゆっくり吸える。
「いやはや、彼はバケモノだな。おまえはよく弾いてるよ」
 立浪教授の言葉に、悦嗣は肩を竦めた。話が見えないさく也は、二人を交互に見た。
 悦嗣は「外の空気を吸いに行かないか」と彼に話しかけ、頷くのを確認すると立浪教授に軽く頭を下げる。教授は英介と似た印象の笑顔で、手を振った。



作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい