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Slow Luv Op.2

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-8- 終章




“中原さく也の音を聴いたよ”
 冒頭の一言で、悦嗣のキーボードを打つ指は動きを止めた。指先が思い出して震えたのだ。中原さく也というヴァイオリニストの音を思い出して。右手で左手の拳を包み、グッと力を入れた。
 そのヴァイオリンのために用意されたステージは、海辺りの広場。防風とアラ隠し――眼前が古い埠頭だったので――の植樹のおかげで、ライトアップされた橋の姿が遮られ、夜景を楽しむには不向きな場所だった。もう少し進めば繁華なアミューズメント・エリアなので、人の流れは大抵そちらに向かう。だから人気と言えば、犬の散歩をする人くらいだった。
 しん…と空気は澄んでいた。月の白さが際立って、ライトのかわりに辺りを晧晧と照らしていた。
 奏者は一人。観客も一人。
――シャコンヌだ…
 冷気を裂いて、音が翔ける。
 闇に吸い込まれることなく、風にざわめく枯れ枝の、乾いた音をものともしない。すべての音をかき消して、それ以外の存在を許さないかのように、次々と変形し変容する『シャコンヌ』 
何度も何度も繰り返される第一主題、多用される重音。ヴァイオリンという楽器の感情の高まりは、それらによって極限まで表現される。
 音は生まれた瞬間から旋律を創り、『楽』と成って、聴くものの耳を支配した。
 悦嗣は我知らず身震いした。寒さからではない。中原さく也の演奏に、体が反応したのである。
 全身が耳となって、その音を受け止めていた。
“押さえつけられて動けない。そんな感じだった”
 あの十五分を文章に出来ない。元々文才の無い悦嗣なのだが、どんな表現も陳腐に思えて、更に語彙を貧困にしていた。
 イスの背にもたれて、煙草に火を点けた。



 弓が最後の音を奏でて、『シャコンヌ』が終わっても、余韻が悦嗣を縛った。目の前にさく也が立って、初めて曲の終わりを知り、忘れていた冷気が体を包んだ。
「聴いた?」
 さく也の口元に白い息が漏れた。
「聴いた」
 言い知れぬ敗北感を、悦嗣は感じていた。感想は言葉にならなかった。
――俺は…、どうして悔しいんだ?
 それは車中にあっても、しばらく拭えなかった。
 楽器の違いはあっても、差は歴然だ。感嘆より先に立つものなどあるはずはないのに、悦嗣の心中はその感情に囚われて、口元は引き結んだままだった。大人気ないとは思った。「ありがとう」の一言も出ない。ただ黙って、ハンドルを握ることしか出来なかった。
 悔しいのは――中原さく也に対してではない。自分自身に対して悔しいのだ。なぜ、自分は聴くことしか出来ないのだろう? なぜ彼のように弾けないのだろう? なぜ、今になって自分は……。
 奇妙な沈黙。悦嗣は視界の隅で助手席のさく也を見る。目は閉じられ、頭が悦嗣寄りに少し傾いでいた。心持ち開いた唇の様子に、幼さが残っている。結局、宿泊先のホテルが近くなり、悦嗣が声をかけるまで、さく也は起きなかった。
 車を路肩に止め、二人は外に降り立った。後部座席から楽器を取り出すさく也に、
「…『シャコンヌ』、ありがとう」
と、悦嗣が言った。心を占めていたものは、幾分、払拭されていた。
 さく也は悦嗣を見つめた。
「あんたが忘れないように弾いたんだ」
 うたた寝でアルコールが抜けたのか、さく也の声はいつもの調子に戻っていた。
「次に会うまで、俺のことを忘れないように。『帰国』と言ったら、エースケだけじゃなく、俺のことも思い浮かべるように」
 さく也のヴァイオリンとその演奏を聴いた後で沸いた感情。彼の思惑通り自分はきっと忘れない。 忘れられない…と悦嗣は心の中で肯定した。
 見透かされたのかと思った。
「案外、根に持つほうなんだな。今度はちゃんと覚えとくさ」
 だから努めて平静を装う。
「うん」
と答えたさく也は、肩からヴァイオリン・ケースを下げてホテルの方向に体を向けた。
「でも、あんたが覚えていてくれるのは、きっと音だけだ」
「中原?」
「ヴァイオリニストとしての俺を、ピアニストとして見ている」
 ヒュッと風が走った。
「それでもかまわないけど」
 頬にかかった髪を払いのけ、さく也は一歩踏み出した。前回の空港同様、振り返らなかった。



 メールの文面は止まったまま。さく也のヴァイオリンについて書き連ねたところで、悦嗣のなけなしの文章力は使い果たされてしまった。感情的とも言える文面は、ただそのことだけに終始している。今更、他の事柄をくっつける気にはなれなかった。
 煙草の煙を天井に向かって吐き出す。目は形の成さない紫煙を暫く追った。耳は『シャコンヌ』をリバースする。間にさく也の、別れ際の言葉を挟みながら。
 確かにあの弓が創りだす音楽に惹かれている。しかしさく也が時折り示す素直な想いは、応える術を持たない悦嗣を戸惑わせた。そして抑えることしか出来ない英介への想いを、刺激するのだ。
 〆の一文もつけないまま、送信をクリックした。メールは一瞬でいくつもの国境を越えて、英介のもとに届くだろう。支離滅裂で尻切れトンボな文面を見て、彼が微笑む様が想像出来た。
「エースケ、おまえは今ごろ何してんだ?」
 画面に浮んだ送信完了の文字に向かって、話し掛ける。
 英介の奏でるやわらかなチェロの音色が、聴こえた気がした。長い一日の終わりに、疲労感が押し寄せた悦嗣の気持ちを和ませる。
 とにかく今日はもう寝よう。英介の音色が耳にあるうちに――PCの電源を落とし、ベットに倒れ込んだ。その時、音は再び、中原さく也の『シャコンヌ』に変わっていた。悦嗣はもう一度英介のチェロをイメージしたが、戻って来なかった。長く息を吐いた後、あきらめて目を閉じる。
 眠りに入るその瞬間まで、『シャコンヌ』は途切れることはなかった。



作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい