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Slow Luv Op.2

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 練習以外の夜で悦嗣の時間が取れた日は、「日本のオーケストラを聴いてみたい」というさく也に付き合って、演奏会に出かけた。十二月のこの時期は、ベートーヴェンの第九ばかり。そんな日本のコンサート事情は、
「こんなに同じプログラムばかりで、聴きに行く人間がいるのか?」
彼には不思議に思えたようだった。結局、彼は昼間に一人で行ったコンサートも入れて、五回も第九を聴いたらしい。
「聴きに行く人間が、ここにいたってわけだ」
と、悦嗣は笑った。
 模範演奏の練習を二人が一緒にしたのは、当日を入れると三回だけ。今回の二曲が、悦嗣の弾き慣れた得意系の曲ということもあって、合わせることだけに集中することが出来た上に、さく也のヴァイオリンとは相性が良いのか、もしくは彼が悦嗣の力量に合わせてくれているせいか――後者なのだとしたら、伴奏者として情けないことなのだが――、たいして時間を掛けずに済んだのだ。
「力量に合わせて弾いたことなんかない。合わせなきゃならない人間と演れるほど、心広くないし」
 当日、大講義室に運び込まれたグランド・ピアノを、自ら調律する悦嗣の様子を見ながら、さく也は答えた。ピアノはホール用のフルコンサートで、月島芸大一の名器である。
「あんたは自分のピアノに自信がないのか?」
「ないね。楽しんで弾くのは好きだけど、人前でしゃっちょこ張って弾くの慣れないんだ。そんなのでいい演奏が出来るとは思ってない。だからピアニストになれなかったのさ。まあ、今日は母校だし後輩の前だから、ちったぁ気が楽だけど」
 それでも緊張はしている。調律する手が冷たいのは、ワイヤーやピンを触っているせいだけではない。半年前のコンサートで英介に指摘されるまで、自分の指が本番前に冷たくなることに自覚はなかった。
――いつも英介が手を握ってくれてたのか。
 チューニング・ハンマーを持つ右手を見る。あの時の英介の柔らかい手の温もりが蘇った。
?でもそう言う時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る?
 声が、笑顔が、悦嗣を励ます。
「…ッシュン」
 脇でくしゃみが聞こえ、英介の幻は消えた。
「空調入れたばっかで冷えるから、部屋に戻ってろよ。まだリハ、出来ないぞ」
「珍しいから見てる」
「物好きだな。俺の上着、羽織っとけ」
 イスにかけていた上着をさく也に手渡した。一瞬触れた手が冷たい。こちらは緊張からというわけではなさそうだった。
「ほらみろ、手、冷たいぞ。ポケットにカイロが入ってるから」
 遠巻きに学生達が二人を見ていた。悦嗣はただのOBにすぎないが、さく也は『中原さく也』なのである。ザルツブルグ当時のことを知るものは少なくても、半年前のコンサートと大人達の騒ぎ様で、その有名はすでに知れていた。ソロで弾くと言うので、尚更、興味津津といったところだ。ヴァイオリン専攻の学生などは特に、お近づきになってレッスンをつけてもらいたいと思っているのだろうが、さく也の冷たい印象が彼らの足を止めていた。
 学生の中には夏希の姿もあった。悦嗣が調律の仕事をしている時は、たとえ場所が実家であっても、彼女は決して邪魔をすることはなかった。さく也が彼女に気がついて、悦嗣に教えた。顔を上げてそちらを見ると、夏希が満面の笑みで手を振った。兄が応えてくれたのを確認すると今度は、
「さっく也さーん」
とさく也に向って力いっぱい手を振る。彼女のよく通る声は部屋中に響いた。さく也は少し面食らったようだった。
「ちょっと手を振ってやってくれ。後でうるさい」
 悦嗣の言葉に、さく也は腰のあたりで躊躇いがちに手を振る。あきらかに複数の黄色い声がして、慌てて手をコートのポケットのしまい込んだ。それを見て、悦嗣は声を出して笑った。
 調律が終わって、一時休憩をとったあと、リハーサルとなった。その頃には学生たちも追い出され、講義室には演奏者二人と二、三人の大学関係者が残った。立浪教授もその中にいる。
「手、温まったか?」
 ケースから楽器を取り出すさく也に、悦嗣は声をかけた。
「これくらいなら弾ける」
 自分の手はまだ冷たい。カイロを握っても温まるのはその時だけだ。部屋はすっかり温かくなっているというのに。
 月島の学生の前で弾くだけで、こんなに緊張しているなんて。悦嗣は自嘲気味に笑った。両手に息を吹きかけて、ピアノの前に座った。



作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい