Slow Luv Op.2
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クリスマス・コンサートの打ち上げと、忘年会を兼ねた飲み会でさんざん飲んだ夏希は、二日酔いの典型的な症状で朝を迎えていた。月島芸大学生オーケストラ団員の四回生は、この演奏会が弾き収めだ。。だからその打ち上げでは例外なく、どの学生も自分の限界以上に飲んでしまうのだった。どこからどうやって帰ってきたのか、夏希の記憶は飛んでいた。
あくびで吐き出された息が、まだアルコール臭を帯びている。
「おはよう、頭いたーい…、クスリない?」
パジャマ姿のまま居間に入ってきたそんな我が娘を見て、母親は遅い朝食の用意の手を止めて、ため息をついた。
「二日酔いに効くのなんてないわよ。まったくもう、いい年頃の娘が、二日酔いになるほど飲むなんて」
ため息をつかれた夏希は、言われたことを気にする風でもなく、テーブルのサラダ・ボウルからプチトマトをつまんだ。母がその手を軽くはたくと、トマトはボウルの中に戻った。
「先に着替えてきなさい。エツがお友達を連れて泊まってるから、そんな格好でウロウロしないで」
母がコンロに目を戻すのを確認して、夏希は再度プチトマトをつまみ、今度は口に放りこんだ。
「友達? 誰? エースケさん? それとも秋本くん?」
「初めての方よ。だから早く。お兄ちゃん達はもう起きてるんだから」
「へいへーい」
もう一つトマトを頬張った。着替えに戻ろうと体を向き直した時、ドアが開いた。
「エツ兄! 昨日、聴きにきてくれた?」
入ってきたのは悦嗣で、夏希は抱きついた。酒臭い息に年の離れた兄は、顔をしかめた。
「行った行った。おかげで疫病神に捕まったけどな」
「何それ? あれ?」
夏希は悦嗣の後ろに誰か立っていることに気づいた。
首を伸ばして見る。確かに今まで兄が連れてきた友達の中にはいなかった顔である。が、まったく知らないというわけでもない。
相手は夏希と目が合ったので、軽く頭を下げた。右目の下のホクロに目が止まった。
「えっ、もしかして中原さく也…さん?」
付け足したような敬称は、さすがに呼び捨てはまずかろうと言う、一瞬の判断からだ。
「夏希、早く着替えてきなさい」
母の再度の促しは、少し怒りモードだった。夏希は舌をぺロッと悦嗣に見せて、今度こそ素直に居間を出て行った。
悦嗣はさく也にテーブルの席をすすめた。母が温めた味噌汁を二人の前に置いた。
立浪教授から悦嗣とさく也が解放されたのは、夜中の二時だった。
悦嗣はそこそこ自分の酒量を知っているし、立浪教授の前で酔いつぶれて、意識の無いうちに何かを承諾させられることを警戒し、努めて注意していたので、最後まで正気を保っていられた。
かたやさく也はと言えば、知らぬ間に眠ってしまっていて、泊まっているホテルも聞き出せない状態だった。たまたま悦嗣の実家に近く、連れ帰ったのである。妹の夏希が遅かったせいかまだ母は起きていたので、ちゃんと布団の上で眠れたのは助かった。
「あの子ったら、幾つになってもガサツで困るわ。やっぱり男兄弟に囲まれて育ったせいかしらね。ちゃんとおはようって言った?」
「言ってない」
と、悦嗣が言い終わらないうちに、どたどた足音も高く夏希が居間に戻ってきた。
「おはようございます! 先ほどはどうも失礼しましたっ。私、この『不肖な兄』の妹で夏希と申します」
まっすぐさく也の方に歩み寄りその手をとると、握手した。ぶんぶんと音がしそうな勢いである。
さく也はされるにまかせ、かろうじて「どうも、中原です」と呟いた。
「感激、ホンモノに会えるなんて。昨日、後輩が中原さく也が来てるって言ってたけど、本当だったんだぁ」
そこから先は機関銃の如き単語の羅列が、延々と続く。血縁者たる母も兄も口を挟めないのだから、赤の他人のさく也など太刀打ち出来ない。それでもその目に嫌な色は見えなかった。彼女の天真爛漫で嫌味のない性格が、人を不快にさせないことを悦嗣は知っている。
それに――さく也と二人ではさほど会話は進まない。六月に成り行きでクインテットを組んでステージに立ったが、親交を深めるには至らなかった。何しろ悦嗣がコンサートに出ることが決まってから本番までは五日ほどしかなく、その時間はすべて練習に費やされたからである。それ以後、会う機会もなかった。
そして――さく也の自分に対する気持ちを、悦嗣は図りかねていた。打ち上げの夜のキスの意味も、空港ロビーでの言葉の意味も。
夏希のおしゃべりな性格は、朝食の時間を明るくしてくれる。だから無理に止めようともしなかった。
「ユニークな妹だな」
食べ終わってから悦嗣は、離れのレッスン室にさく也を案内した。言葉の洪水の中に浸かるのにも、さすがに限界が見えてきていたので。
「一日一緒にいたら、耳鳴りがするぞ」
エアコンのスイッチを入れながら、彼の言葉に答える。噴出し口から温風が流れた。
振り返り、今度は悦嗣が聞いた。
「兄弟は?」
壁一面は書棚になっていて、楽譜が並んでいる。さく也は近寄って一冊を手に取り、頁をめくった。
「弟がいる、双子の」
「双子?」
悦嗣は意外に思った。てっきり一人っ子と言う答えが返ると予想していたからだ。お互いの家庭環境まで話す間柄にまだないから、親兄弟の影が見えないのはあたりまえだが、それ以上に、彼はそれを想像させない。
「へえ、同じ顔がいるのか」
「二卵性だからあまり似てない」
次の答えは素っ気なかった。なので会話もそこで終わり。悦嗣は夏希の才能を実感した――このさく也相手に途切れる事無く喋りつづけることが出来るのは、一種の才能と称することが出来よう。それは立浪教授にも言えることだった。あちらは年の功も加わっているので、計算も入って始末に負えないところがある。
中原さく也は月島芸大で模範演奏をすることになった。プロの演奏家に頼むのだから、本来、相応のギャラが発生するのだが、彼はそれを受け取らないかわりに、立浪教授にある条件を呑ませたのである。
『加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?』
「おまえ、なんであんな条件出したんだ? 共演の話なんて無いだろ」
楽譜に目を落としていたさく也が、悦嗣を振り返った。
「あんたに貸しを作っておくのも、面白そうだと思って」
悦嗣はポカンと口を開けた。またもや会話が途切れる。
さく也は四、五冊楽譜を選ぶと、悦嗣の座るピアノの上に置いた。どれもヴァイオリン・ソロの楽譜である。もとは悦嗣の所有物で、伴奏の課題や学内演奏会で使用したものだった。卒業してからは使うこともなく、家を出る際に置いていったので、ずいぶん久しぶりに目にする。
「どれか弾ける?」
「もともと俺の楽譜だ。このチャイコ(チャイコフスキー)は、スケルツォなら弾ける。ヴォカリーズもよく弾いた」
「じゃあ、この二曲にする」
ラフマニノフの『ヴォカリーズ』とチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出』を残して、あとの楽譜は片付けられた。それからその二冊を、悦嗣に渡す。
悦嗣は顔をしかめた。渡された意味はわかっていた。
「俺?」
「弾けるかって、ちゃんと確認した」
「立浪はバッハのシャコンヌを期待してたぞ」
作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい