Slow Luv Op.2
シャコンヌはバッハのヴァイオリン・ソナタで、無伴奏の難曲。酔って眠ってしまったさく也は覚えていないことだが、立浪教授はこの曲を演奏してもらいたいと悦嗣に話していた。無伴奏ヴァイオリン曲の頂点に立つ曲この曲は、プロの演奏家ならレパートリーに加える努力をする。
「一人で弾くのは好きじゃないし」
さく也は考慮する気もなさそうだった。「弾けないから」と答えないところをみると、彼もやはりプロなのだ。
「ここは使わせてもらっていいのか?」
「夜なら構わないと思うけど。わかってんのか? 俺は仕事あるんだぞ」
クリスマス・コンサート等々で調律の依頼が毎日入っている。それとなく断っているつもりだが、わかってくれているとは思えない。と言うよりも、聞く耳持たない風情がある。
それに今ひとつ強固に断れないのは、悦嗣の指が鍵盤を懐かしがっているからだ。六月に聴いたあの中原さく也の『音』を、もう一度感じたがっている。
「ヴァイオリンは?」
プライベートの旅行だと聞いている。ウィーンからの距離を考えると、仕事でもないのに、大事な楽器を持ってきているとは思えない。彼くらいの弾き手が使っているヴァイオリンは、そこそこ銘器のはずだ。
「持ってきたよ。あんたと弾くつもりだったから」
さく也はさらりと答えた。
悦嗣はため息をついた――まったく、どいつもこいつも。
「わかったよ。この二曲だな?」
そしてわくわくしている自分も、気後れしている自分も。
夜、マンションに戻ってPCのメールをチェックする。ここ数日開けていなかったので、ダイレクトも合わせて結構な数のメールが入っていた。その中に曽和英介の名前を見つけた。悦嗣はそれをクリックした。彼からのメールは約一ヶ月ぶりだ。
“久しぶり。元気にやってるか? こっちは演奏会続きで忙しい。移動も多くて…”
英介の口調そのままの文面を読み進む。彼の近況が目に浮んだ。どんなに忙しい毎日であっても、きっと楽しそうに演奏しているに違いない。英介は本当にチェロが好きで、単純な音出し練習でさえ嫌がらずにこなしていた――「音がきれいに鳴るのが、嬉しいんだ」と。
目元に笑みが浮ぶのを、悦嗣は止められない。
“…そうそう、さく也がWフィルに入ることになった。オーディションの演奏は、すでに語り草だ。主席団員以外は聴けないきまりなのが、本当に残念だよ。正式入団は来年早々だから、それまでオフを決め込んだらしい。日本へ行くって言ってたよ”
「もう来てんだよ、エースケ」
読み終わったメールを閉じながら、独りごちた。
昼間、仕事道具を取りに戻った時に持ち帰った楽譜『ヴォカリーズ』と『なつかしい土地の思い出』が、机の上で悦嗣を誘っている。手にとって開いた。ラフマニノフもチャイコフスキーも好きな作曲家だった。コンクールや試験向きという事もあって、よく弾いたし、弾かされた。
立浪教授から日程の連絡が入り、さく也が了解したので、ウィーンに帰る前日の午後に月島芸大の大講義室での模範演奏が決まった。
この状況を知ったら英介は、
「やっぱり、弾きたくなっただろう?」
と無敵の笑顔で言うに違いない。そして反論出来ない自分の姿を、容易に想像できた。
中原さく也とは、二日後の夜に最初の音合わせを予定している。
悦嗣の指はすでに臨戦態勢だ。あの時の吐き気にも似た緊張感ではなく、陶然となる瞬間だけを思い出している。
あきらかに半年前とは違う。音を知ってしまった指は、悦嗣の感情などお構いなしだった。
「まったく…仕様がないな」
その独り言は、何に対してなのか。零れた言葉は、静まり返った部屋の中に飲み込まれた。
作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい