Slow Luv Op.2
これは悦嗣の心の声。確かに中原さく也の音を聴くことは、いい勉強になるだろう。レッスンをつけるのは苦手かも知れない。しかし、あの音を聴くだけでもそれに勝るものが得られる。
さく也はどんな表情でこの話を聞いているのだろうか…と彼を見る。
視線に気づいたのか、彼もまた悦嗣を見た。
「いいですよ、弾くだけなら」
意外な言葉がさく也から出て、喜んだのは立浪教授。驚いたのは悦嗣である。
「そのかわり、俺もお願いしてもいいですか?」
「いいとも。何でも言ってくれたまえ。日にちでも時間でも、そちらの都合を優先させるから」
「十日ほどいますから、その間ならいつでもいいです。お願いは、加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?」
更に意外な言葉が出る。今度は立浪教授が驚いた。
「それは、どう言う意味かな?」
「彼と共演する話が出ているので、そちらに専念してもらいたいから。しばらく音楽から遠ざかっていたせいか、彼本来のピアノからはまだズレがあるように思えます。人のためにではなく、自分のために時間を割く方が先決だと思うので」
あのさく也が滑らかによく喋る。きっとアルコールが入っているせいだ。
それより何より、彼の話はまったくの初耳だった。共演のことなど何も聞いていない。
「そうなのか、加納?」
「え、いや…その」
「そうか、遂にプロとして食ってく覚悟が出来たか、水臭いな。なんで私に言わないんだ」
立浪教授の意識がさく也から、再び悦嗣に戻る。
悦嗣はどう答えていいのかわからず、口篭もることしか出来なかった。さく也はと言えば涼しげな顔をして、空になったグラスを軽く上げてギャルソンを呼び、おかわりを頼んでいる。
「なんだ、なら講師の話はしばらく凍結してもいいぞ、加納。演奏活動するなら、話は別だ」
上機嫌な教授に対して、答える言葉の見つからない悦嗣であった。
作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい